建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の選び5 イスラエルへの神の思い  ロマ10:18~11:5

1997-42(1997/10/19)

イスラエルへの神の思い  ロマ10:18~11:5

 「しかし私は言う、彼らはこの言葉を聞かなかったのだろうか。しかしながらこうある『その響きは地全体を駆けめぐり、その言葉は世界の果てにまで至る』(詩19:4)。
しかし私は言う、イスラエルはこれを理解しなかったのだろうか。最初の人物としてモーセが言っている、『私はあなたがたに、民でない者に嫉み深くさせようと欲し、無知な民に対してあなたがを憤慨させるであろう』(申命32:21)。イザヤも大胆に言っている、『私をたずね求めなかった者たちに、私は私を見出されるようにさせ、私をたずねなかった者たちに、私を現した』(イザヤ65:1)。彼はイスラエルに対して語っている、『終日、不服従で反抗する民に対して、私は手を差し伸べていた』(イザヤ65:2)。そこで私は言う、神はその民を見捨てられたのだろうか。決してそうではない。私自身もイスラエル人であり、アブラハムの末裔、ベニヤミン族の者である。否、『神はあらかじめ選びたもうたその民を見捨てられなかった』。それともあなたがたは、聖書がエリヤについて言っていることを知らないのか。エリヤは神の前でイスラエルに対してこう嘆いた、『主よ、あなたの預言者を彼らは殺し、あなたの祭壇をこわし、そして私一人だけがここに残され、しかも彼らは私の生命を狙っています』(列王上19:10以下)。しかしながら彼に対する神の答はどう言っているか。『私は、バールに膝をかがめなかった7千人を私に残しておいた』。かくてまさしく今の時にも、恵みの選びにふさわしい残りの者たちが存在しているのだ」。
 はじめに、10:18~21。18~20節までは、イスラエルが、パウロの言う、信仰の言葉(10:8)、福音(16節)キリストの言葉(17節)を聞かなかったはずがない、とパウロは主張する、18節。しかしながら、神の言葉はアンビヴァレンツ、対極性をもっていた。神の御心がイスラエルから離れて「民でない者たち」に向うと、これはキリストの贖いの出来事といえるが、これをパウロはイザヤ65:1に依拠して述べている。「イスラエルの神は、イスラエルに所有されないのである」。神は「ご自分を探し求めなかった者たちに見出され、ご自身を啓示したもうことを欲せられた」20節。イスラエルの心に神は「民でない者たち」に対する「嫉み深さを起こさせ」、「彼らに対する憤激、憤慨を起こさせた」。この「頑な、憤慨」がキリストをして十字架につけさせた要因であった。パウロは、これを申命32章の記事から論証しようとした。19節。
 にもかかわらず、神の御心のもう一の、慈しみの側面をパウルは引き出している。21節。神の御心がイスラエルから離れることがなかった。イスラエルの不服従と反抗にもかかわらず、いつも神はイスラエルにそのみ手を差し伸べていた、とパウロはいう。神のイスラエルに対する、怒りを超えたの慈しみ、怒りを内に包み込む慈しみの思いである。
 11:1以下で、パウロは断言している、「神はその民を見捨てられたのだろうか、決してそうではない」と。この帰結は現代のキリスト教国における「ユダヤ人迫害」や「ユダヤ人差別」のテーマを考える時、特に重要である。別の機会に。
 2節の,「あらかじめ選びたもた民を捨てることはなかった」は、1節の主張を強調している。しかもそこでの「選ばれた民」はもはや民族全体ではなく、9:27、11:4にあるように、イスラエルの中の「残された者たち」を意味する。現実には「ユダヤキリスト者」を指す。
 2節後半からエリヤに関する言及がある。アハジヤ王と妃イゼペルに迫害されて、 砂漠にのがれたエリヤは、孤独の中で死を願って神に訴えた、3節。ヤハウェの真の信仰者、その預言者は自分一人きりであり、しかも自分は生命を狙われている、と。これに対して神は答えられた。現在残っている者は、決してエリヤ一人ではない、彼と共に「バール・偶像に膝をかがめない、すなわちヤハウェのみを拝む七千人を神は残している」と。この7千人が「残された者・聖なるレムナント」であると。
 パウロによれば、この「残された者」は歴史のエピソードではなく、「まさしくこの今の時にも、神の恵みにふさわしい、残された者たちが存在している」5節。これはキリスト者集団である。