建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、イスラエルのつまづきの意味  ロマ11:6~15

1997-43(1997/20/26)

イスラエルのつまづきの意味  ロマ11:6~15

 「しかし恵みをとおしてであるならば、最早、業からではない。そうでないならば、 最早、恵みは恵みでなくなるからである。これは何を言っていることになるのか。イスラエルは到達しようと試みたものには到達せず、むしろ選ばれた者たちがそれに到達した、ということである。これに対して、そうでない者たちは『かたくなにされた』。こうしるされているとおりである、『神は彼らに麻輝した霊を与えられた。見えない目、聞こえない耳とを与えられた、今日に至るまで』(申命29:4、 イザヤ29:10)。そしてダビデも言っている、『彼らの食卓は、彼らには罠となれ、網となれ、転倒、報いとなれ。彼らの目は蝕となって見えなくなり、彼らの背はいつまでも屈んだままになれ』(詩69:22~23)。
 かくして私は言う、『彼らは倒れるために、つまづいたのだろうか』。決してそうではない。むしろ彼らの踏みはずしたことをとおして、救いが異邦人にもたらされた。それは彼らに『ねたみを起こさせる』ためである。しかし、彼らの踏みはずしたことが世の豊かさとなり、彼らの脱落が異邦人の豊かさとなったとすれば、彼らの充満はいかに絶大なものであろうか。私はあなたがた異邦人に言う、私は異邦人の使徒であるから、私の務め・奉仕を誇りとし、わが骨肉に『ねたみを起こして』彼らのうちのいくばくかを救うことができたらと願う。彼らの棄却が世の和解をもたらすとすれば、彼らの受容は死人の中からの生命にほかならないではないか」ヴィルケンス訳。
 5節の、「今日に至まで、恵みの選びにふさわしい残りの者たちが存在する」をうけて6節では「神の民」となれるのは、律法・戒めについての知識とその実践に基づくのではない、《神の選び》は「業からではなく、徹頭徹尾、神の恵みをとおして起きた」ことをパウロは強調する、6節。ここでは「業・律法・イスラエル」と「恵み・業からではない・異邦人」が鋭く対比される。「神の選び」は、救いの現時点(「今日」5節)からみると、対極的な帰結をもたらした。すなわち「イスラエルは到達しようと試みたものには到達せず、他方《選ばれた者たち》がそれに到達した」7節。イスラエルは「業から神の選びを得ようとしたが、義には到達しなかった」9:31。他方「それ・神の義に到達したのは《選ばれた者たち》である」。ここの「選ばれた者たち」の解釈は難しい。ほとんどの解釈は「異邦人」と解釈する。しかし原語の意味は「選りすぐりの者」というニュアンスがある。それで文脈的には5節の「残りの者たち」と「そうでない者たち」(7節)との対比と結合する。言い換えると、ここは「異邦人」という意味ではなく「ユダヤキリスト者」ととれるが、異邦人キリスト者も含めたものと解釈できる、ヴィルケンスの注解。
 イスラエルが義に到達しなかったのは、重大な神の配剤・行動があった、とパウロは主張している。 「そうでない者たち、不信仰のイスラエルは《かたくなにされた》」。ここは受け身形で、《神が》イスラエルをかたくなにされた、という、7節後半。この聖書的論拠としてパウロは、次の箇所をあげている。8~10節。この引用でパウロイスラエルの過去の、「かたくなな」状態を述べているのではない。イスラエルの現時点の「かたくな」をえぐり出している。彼らの「かたくな」とは使徒たちの福音「信仰の言葉」10:9、を拒み、死人の中からのイエスのよみがえり(10:9)を拒絶した点にある。また詩69:22以下の引用(9節)の、「食卓」は罪の贖いの機能をもつ「あなたの祭壇」(3節)を意味し、パウロはこの詩篇の引用をエルサレム神殿への呪いの言葉として語ったという。「彼らの食卓・祭壇は罠、網となれ、転倒、報復となれ」。パウロのイメージには「悪魔の食卓」と対比される「主の食卓」(第一コリ10:21以下)があり、神殿における罪の贖いの儀式の無力化とそれにとって代わる、キリストの十字架の贖いがあった、8:3。
 11~12節でパウロは、このユダヤ人問題(9~11章)の中心的な問題提起をしている。「彼らは倒れるために、つまづいたのであろうか。けしてそうではない。むしろ彼らの踏みはずしをとおして、救いが異邦人にもたらされた。それは彼らが『ねたみを起こすためである』」。
 イスラエルの「転倒」は究極的な減びを「つまづき」は一時的、暫定的な控折を意味していよう。11:1でも「神はイスラエルを捨てたのであろうか。決してそうではない」と語ったが、ここではそのポイントが歴史における「神の摂理」(9:19)という形で展開される。イスラエルは確かに、キリスト・つまづきの石につまづいた。しかしながら「彼らのつまづき・踏みはずしをとおして、救いが異邦人にもたらされた」。むろんもしイスラエルがキリストの福音を受け入れていたとしたら、救いが異邦人にもたらされることはなかったのかという仮定は成り立たない。ここでの「彼らの踏みはずし」とは、9:32、イスラエルが「信仰にもとづいてはなく、業にもとづいて義に到達しようと意図した」点にある。さらに言えば、行伝のポイントがある、イスラエルはイエスにつまづいたばかりでなく、使徒たちバルナバパウロにもつまづいた。13:46以下「パウロバルナバは語った『神の言葉は、《まず》あなたがた・ユダヤ人に語らなけれは《ならなかつた》(神の定められた順序どおり)。しかしあなたがたがそれをはねつけ、自分を永遠の生命にふさわしくない者とするので、それではよし、異邦人(伝道)のほうへ方向を変える。主がこのようにわたしたちに命じておられるから…」
 ロマ11:11後半で神の意図がしるされている。「それは彼らに『ねたみを起こさせる』ためである」。協会訳は「奮起させるため」と訳しているが、誤訳であろう。ここの「ねたみ」は10:19で引用された、申命32:21に由来する。むしろ「滅び」の意味合いが強いが、14節では「彼らに嫉みを起こして、そのいくばくかを救いたい」とパウロは、積極的な意味 救いにつながる意味あいで「ねたみ」を用いた。
 15節。「彼らの棄却が、世(異邦人)の和解となったとすれば、彼らの受容は《死人からの生命》にほかならないではないではないか」。「彼らの棄却」はイスラエルが神によって捨てられたこと、救いから締め出されたこと、9:27~29、  10:19~21など。ここでもイスラエルが神から見捨てられた事実が、異邦人が神との和解を実現するきつかけとなった、とパウロはいう。そればかりではない。イスラエルの「つまづき、かたくな」は、ある種の「死人の事実」とみなされているが、神は《再びイスラエルを受け入れたもう、そのかいなに抱き締められる》。この「彼らの受容」は神が棄却されたイスラエルを再び救いへと導き入れたもう神の救いの業を述べている。「死人からの生命」はイスラエルの救いの回復の象徴的表現ではなく、むしろ、つまづき、倒れ、かたくななイスラエルの死からの、神による復活と解することができる。異邦人は神によって神と和解するのだが、イスラエルは死からの生命を神から与えられる。