建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、ユダヤ人の救い  ロマ11:25~27

1997-45(1997/11/9)

ユダヤ人の救い  ロマ11:25~27

 「兄弟たちよ、というのはあなたがたにこの奥義をについて無知のままでいてほしくないと私は欲しているからだ。それはあなたがたが自分たちでは賢くならないためである。(すなわち)イスラエルの一部の人々が、頑なにされる目にあったのは、異邦人の全体が(救いに)入れられる時に至るまでである。かくしてイスラエル全体が救われるであろう。
 こうしるされているとおりである、『救済者はシオンから来るであろう。彼はヤコブの内の、不敬虔な者たちを救うであろう。そしてこれこそ彼らのために私によって(与えられる)契約となるであろう。その時、私は彼らの罪を取り去るであろう』(イザヤ59:20~21、27:9)。
 福音に関連しては、彼ら(イスラエル)はあなたがたのゆえに、神の敵となり、また選びに関連しては、彼らは父祖たちのゆえに神に愛された者となった。すなわち神の恵みの表明も神の招きも取り消せないのだ。あなたがたがかってどれほど神に不服従であったとしても、今では、彼らの不服従によって、あなたがたは神の憐れみを体験した。そのように、彼らも今ではあなたがたに与えられた憐れみのために、神に不服従にされたが、それは彼らもまた憐れみを経験するためである。すなわち神はすべての人を不服従の虜に封じ込めたもうたが、それは彼らすべてが憐れみを受けるためであった」。
 25節でいう「奥義」の内容は、後半にしるされている、すなわち「一部のイスラエルが頑なにされる目にあったのは、異邦人全体が(救いに)入れられる時に至るまでである」。イスラエルが神によって「頑なにされる目に遭う」という歴史における「この否定的な現実」は、他方の神によって「異邦人が救いに入る」という「肯定的な現実」を実現可能にする、神の深い摂理によるものであった。この摂理は、イスラエルユダヤ人にとってはかり知れない「奥義」であったばかりではない。異邦人にとっても「人間的な《賢さ見識》」を超えでたもので、「自分たち自身では決して悟れないもの」であった。そこに神からの《特別の啓示》をとおして理解可能となる事柄、すなわち奥義であった。
 25節の中段「あなたがたが自分自身では賢くならないためである」について。松木訳は「あなたがたが賢いと《自負しない》ためである」、ケーゼマン訳は「それによってあなたがたが自分の見解を頼みとしないためである」。ケーゼマンは意訳しているが、一番わかりやすい。この神の奥義が人間的な賢さには「隠されている」ことを言っている。神はイスラエルの存在なくしては、異邦人(キリスト者)の救いを可能なものとは欲したまわなかった。
 パウロのいう「奥義」は、神ご自身の占有する御心を意味するが、その現実的な現われとしては、人間の知識、考えとは逆行している、人間にはつまづきとなる場合が多い。イエスの十字架がその典型である。ここでは「奥義」は第一に、神はイスラエルの「一部分の人びと」に「つまづき」をくだされた点である。他方、「つづくことのなかった《残りの者》」すなわちユダヤキリスト者はつまづきから免れた。第二に、イスラエルがつまづいた時期は神によってはじめから時間的に限られていた点。「イスラエルがかたくなにされる目にあったのは、異邦人全体が(救いに)入る時までである」25節。「異邦人全体が救いに入る」においては、パウロ使徒たちによる異邦人伝道の完成、各地に異邦人の教会が形成されることをイメージしていたようだ。したがってこの時期は、二つのものが同時進行していく、すなわち、一方で異邦人が救いへと招かれる、終末時の救いの時が開始されるが、他方では、ユダヤ人のつまづきはなおも継続している。第三に、「かくしてイスラエル全体が救われるであろう」26節前半。すなわちイスラエルは「つまづき」の時期を終って、つまづきから解放され、滅びからも救われる。これがパウロの説いた「奥義の内容」であった。異邦人の救いは「イスラエルのつまづき」を手段とすることなくしては実現しなかった。しかしながら異邦人の救いが実現する状況においては、イスラエルもまた再生の時を迎える。このイスラエルの救いをパウロは次の引用をもって根拠づけている、26節後半一27節。
 「救済者はシオンからくるであろう。彼はヤコブのうちの不敬虔を取り除くであろう」はイザヤ59~20からの引用。むろんパウロは、イザヤの文脈の「救済者」をキリストに転調させている。「シオンから到来する救済者」をキリストの受肉・誕生と解釈する人々がいるが、ここでは「キリストの再臨」(第一テサ1・10)と解釈すべきであろう、ヴィルケンス。後半の「不敬虔の除去」また
 27節「そしてこれこそ彼らのための私の契約となる。その時私は彼らの罪を取り除くだろう」(イザヤ27:9の引用)。「契約」は70人訳では「賜物」。この「罪を取り除く」、あるいは26節後半「不敬虔の除去」は、明らかにキリストによる神なき者たちの「義認、罪の赦し」が想定されていよう。言い換えると、ここの「シオンからの救済者」すなわちキリストは、すでにキリスト者に対してなしたもうたこと「罪人の義認、罪の贖い」をユダヤ人・イスラエルに対してもなしたもうのだ。現在は使徒たちによる異邦人伝道が開始され、他万この異邦人をとおして現在は「倒れたイスラエル」がキリストの立てたもう契約、新しい契約に再び受け入れられる、その時でもある。