建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、ユダヤ人の救い3  ロマ11:32~35

1997-47(1997/11/23)

ユダヤ人の救い3  ロマ11:32~35

 「そのように、彼らも今ではあなたがたに与えられた憐れみのために、神に不服従にされたが、それは彼らもまた憐れみを経験するためである。すなわち神はすべての人を不服従の虜に封じ込めたもうたが、それは彼らすべてが憐れみを受けるためであった。
 ああ神の豊かさ、知恵と知識の何と深いことか。
 神の審判のなんときわめがたく、
 その道は何とはかりがたいことか。
 というのは『誰が主の思いを知つていたのか。
 誰が主の助言者に任じられたのか。(イザヤ40:13)
 誰が主に前もって差し出して、
 それにふさわしいお返しを受けたのか』(ヨブ41:11)
 すべては彼から出て、彼をとおして、彼に向かって存在する。
 栄光が永久に彼にあれ、アーメン」ヴィルケンス訳

 32節。パウロは、ネガティヴ・否定的なものをとおして、その否定的なものを肯定的なものへと引っ繰り返す神の意図・摂理を提示している。32節。「神への不従順に神が人を封じ込められたのは、神の憐れみを受けるためであった」。そしてここでもユダヤ人は「神の憐れみを受ける」と約束されている。なるほど、神の救いの摂理のもとで、ユダヤ人の不服従は、異邦人の救いに役立つものとなったが、その神の救いに基づいて、今度は神の憐れみは(これは異邦人に示されたものであったが)不服従ユダヤ人にも与えられることとなった。そしてこの憐れみは、ユダヤ人の不服従、つまづきを彼等から引き離し、それを癒す。神なき者である異邦人を義とするのは、十字架につけられたキリストであるが、不服従ユダヤ人を信仰によって義とするのも、彼らがつまづいた十字架のキリストである。第一コリント1:24「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人には、つまづきであるが、」。
 パウロは25節で「奥義・秘義」について語ったが、その奥義は、異邦人への神の招きという前代未聞の出来事を意味するだけではない。
 この秘義・奥義は「ユダヤ人の救い」を意味する。ユダヤ人の救いは、26~27節にあるように、《シオンから出る救済者》による新しい契約に基づく、ヤコブ、すなわちイスラエルの不信の除去をもって実現する。パウロによれば、そしてこの「シオンから出る救済者」こそキリストご自身である。
 ここで難しいのは「神の憐れみ」のありようである。32節後半「神はすべての人を不服従に封じ込められた、それによって神がすべての人を隣れみたもうためである」。そのまま読めば、ここは不服従に封じこめられないと、神は憐れみをさずけてくださらない、ととれる。しかしこれは話が逆であろう。ケーゼマンはこう注解している
 「神の恵み・憐れみは神の怒りの領域に侵入していく。福音の力は人間の不服従において証される。神の神性は、それが人間の現実をあからさまにし、かくて人間の人間性を打開する点に、示される。パウロはこの点を個人の領域に限定しない。神が世の創造者であって、個人の問題のみに限定されるものではないからだ。それゆえパウロの展開する《救済史》は普遍的な広がりをもって、義認論(神なき者たちを義とする)と結合される。パウロは各個人と世界史とを義認論の使信からとらえようとし、古い世の終りと新しい世の始まりを《神なき者たちの義認》として見ている。イスラエルの問題は結局このテーマのもとで解決される」。神に対する人間の《不服従》は、《神の憐れみ》すなわちキリストの十字架の贖いをもってはじめて取り除かれる、というパウロは説くが、人間の側の否定的な現実、つまづき、不服従に神の憐れみが「侵入していって、それを打開する」これはこの不服従のもとで神の憐れみは把握されるというだけではなく、神の憐れみがこの人間の実態、不服従をあばき、癒すことをも意味する。
 33~35節。「神の豊かさと知恵と知識の何という深さよ」において、「豊かさ」の内容は「知恵と知識」ととれる。この「豊かさの深さ」とはむろん選ばれた者たちへの「救いの賜物の深さ」のことである、ヴィルケンス。「神の知恵」は「十字架につけられたキリスト」に関連づけられたが(第一コリ1:24以下)、ここでは「神の憐れみ自体」が人間の知恵を超えた、人間には把握しがたきもの、とある。「神の知識」も、人間が神に抱く知識のことではなく、神ご自身がご自分の者たちをお選びになるその知識のことである。これは次の「審判」の根拠ともなるもの。「審判」は「神のさばき」のことではなく、ある対象に対して「判断して裁可すること、ある基準でその対象を選り分けること」これはすでに歴史の中で、ユダヤ人・イスラエルへの選びと棄却、ユダヤ人の棄却をとおしての、異邦人の受容。異邦人の受け入れをとおして、再びユダヤ人を救いへと導く、との神の意図、行動として示された。
 「神の奥義の深さ」は神の超越性といった形で隠されているのではなく、むしろ神の歴史的な行動において隠されている。きわめがたき裁可の内容、選びと棄却、神なき者たちへの憐れみのみ手として。あること、ユダヤ人の選びはほかのこと、異邦人の不服従を生み、ユダヤ人の棄却が異邦人の救いを生み、異邦人の救いがユダヤ人の究極的な救済を生み出す、このような神の道、神の歴史における行動の「はかりがたさ」が「その道ははかりがたい」の意味である。
 34~35の引用。34節はイザヤ40:13の引用。35節はヨブ41:11からの引用。内容的には、人間が自分の業にもとづいてある恵みを得るのであれば、それは報酬であって、もはや恵みではない、というパウロの見解、4:4をふまえている。
 神の奥義、歴史におけるその選びと棄却の業、神なき者への憐れみ、見捨てられ、二度と立ち上がれないと思い込んでいる、望みのついえ去った者に再び差し出される憐れみのみ手、これは明らかに神讃美の起こる状況である。神讃美の状況とは人が神の憐れみをじかに体験した状況である。