建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、霊的な礼拝  ロマ12:1~5

1997-48(1997/11/30)

霊的な礼拝  ロマ12:1~5

 「兄弟たちよ、それゆえ私は、 神の慈悲によってあなたがたに勧告する、あなたがたの体を、生きた、聖なる、神によみせられる供え物として神にささげなさい。これこそあなたがの《霊的神礼拝》である。そしてこの俗的時代に同調してはならない。むしろ《思考を革新することをとおして生まれ変わり》。何が神の御心であるか、すなわち何が善であるか、神に喜ばれるか、完全であるかを決断しなさい。
 私は自分に与えられた恵みによってあなたがたの内の、一人一人に言う、もくろむべきでないことを超えて、もくろんではならない。むしろ神が自分に授けられた信仰の尺度にしたがって、分別のあるように、もくろみなさい。というのは私たちが一つ体に多くの肢体をもっていて、その肢体がすべて同じ機能をもっていないように、私たち多くの者は、キリストにおいて一つ体であり、しかも互いの関係においては互いが肢体であるからだ」
 12章からキリスト者の生活への勧告部分が始まる。第一に、キリスト者の神への関係についてである。
 1節でパウロは、ローマの教会員らに「神の慈悲によって勧告する」という。11:31~32で「不服従な者たち」への「憐れむ・エレオー」神の行為についてパウロは語った。ここでは、勧告の根拠としてパウロがあげているのは「神の慈悲・オイキテイルモス」である。この「神の慈悲」の性格は、11:22に照らしていえば、父性のもつ厳しさだけでなく、母性のもつ暖かさをも兼ね備えたものといえる、ヴィルケンスの注解。6:13では、パウロは「義に奉仕するために自分の肢体を神に委ねなさい」と述べたが、ここでも同じように、「自分たちの体を神に委ねなさい、仕えさせなさい」という。この「体・ソーマ」とは「肉体・サルクス」ではなく、キリスト者の人格的、身体的存在を意味する。この「体」は、6:6以下によれば、キリストの死をとおして罪の支配力から解放されたもの、第一コリ6:20によれば「代価を払って買われた」ものであり、それは「自分たちの体で神を賛美する」ためである(同、6:20)。
 「体」が意味するのは、他のものと交換不可能な「私」のことであるが、この「われ」は私自身のために存在するのではなく、むしろ神との身体的な、具体的な交流の中にあるといえる。「神にささげる」は、具体的な神服従において神との交流を実現することを意味する。個々のキリスト者の「体」は、「キリストにおいて一つ体」である、5節。神に対するこのような身体的な献身はキリスト者らの唯一の「供え物」である。
 「生きた」は、生ける神によるよみがえりの力としての、み霊の作用を意味する。「聖なる」は神によるキリスト者の「聖化」(第一コリ1:2)をふまえている。「神に喜ばれる」は、神の御心をなすことで、神に喜ばれるというニュアンス。
 「霊的神礼拝」の「霊的・ロギケー」は少し難しい。ペテロ第一2:2「霊的な混じり気のないミルク」救いの使信とある。(1)「ロギケー・霊的な」はロゴスの形容詞であるから「ロゴス的な、理性的な、理にかなった」の意味もある。ギリシャ哲学、ストア派などはロゴスが人間と神とにおいて同一であると言った。(2)しかしこの用語は「霊的・プニュマティコス」と同じの意味もある、ケーゼマン。(3)バウアーの辞典は「ロギケー・霊的は《霊的な・プニユマティコス》という意味ばかりでなく、《比喩的でない、本来的な》を意味する」いう。カルビンは「自己を供え物として捧げることが、真の神礼拝である」といったが、この「霊的礼拝」も「真の、本来の礼拝」という意味だ。キリスト者の神礼拝は、聖なる場所で聖なる時間に聖なる儀式の執行にあるのではない。むしろこの世の、世俗的と言われた領域、つまりこの世の日常生活で、身体的な存在をささげることである。ケーゼマンの注解。その場合、第一ペテロ2:5「あなたがたが聖なる祭司となって、キリストのゆえに神に喜ばれる霊の供え物・いけにえをささげるためである」
 2:9「あなたがたは選ばれた部族、王なる祭司、聖なる民、神直属の民である」によれば、キリスト者自身が、供え物であり、同時に祭司であるが、パウロもこの立場をとってキリスト者の万人祭司論を述べている。
 パウロは6~13で、「あなたがたの《肢体》を不義の武器として罪に委ねることをしないで、むしろあなたがた自身を死人の中から生かされたものとして神にささげ、あなたがたの肢体を義の武器として神に対してささげなさい」と言った。ここでは「肢体」でなく、「体」、キリスト者の存在全体と言われている。「体」は地上的、感覚的で目に見える世界のものである。キリスト者の「魂・精神・心」を神にささげることではなく「体」という地上的な人間の身体性という、いわば俗的な現実の献身が「霊的礼拝」と呼ばれている。これもある種の逆説である。
 2節。「あなたがたは《この世の機構》に同調するな」。「この俗的時代・この世の機構・スケーマ」は、内面的な本質に対する外面的な形を示すものではなく、むしろそのものの本質を表現するところの形態・姿をいう。パウロは《この世のありように同調するな》という。
 むしろ、《自分たちの思考を革新する》。「思考・ヌース」は「理性、心」の意味もあるが(協会訳、松木訳など)、ここは「思考」にした、ケーゼマン、ヴィルケンス訳。
 「革新する・アナカノネオー」は「繰り返し新たにする」の意味。「生まれ変わる」は虫などの「変態」のことで「自己変革」のことだが、動詞が受け身形、つまり変革の主体が神であることを示唆している。このキリスト者の「革新」を実現するのは「洗礼」であると、パウロは見ている。「洗礼において、キリストの出来事の終末時的な救いの現実は義認と聖化としてキリスト者の地上的な具体的な生活の中で作用する。古いものは過ぎ去り新しきものが生起させられる(第二コリ5:17)。このような変革と革新は洗礼によってキリスト者の生活を規定している」ヴィルケンスの注解。