建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

み使いのお告げ  マタイ1:18~23

1997-49(1997/12/7)

み使いのお告げ  マタイ1:18~23
 
 マタイ伝における「イエスの誕生記事」(1~2章)の構成は、イエス系図(1:1~17)、み使いのお告げ(1:18~25)、東方の博士たち(2:1~12)、エジプトへの避難(2:13~23)からなっている。今回は1:18~23。
 「ところで、イエス・キリストの由来はこういう事態になっていた。すなわちイエスの母マリアがヨセフと婚約していた時、彼らが一緒になる前、マリアが聖霊によってみごもっていることがわかった。彼女の夫ヨセフは正しい人であって、彼女のことで騒ぎになることを欲しなかった。それで彼女を密かに離縁しようと決心した。ところが、彼がそのことを熟慮していた時、見よ、主のあるみ使いが夢で彼に現われて、言った『ダビデの子、ヨセフよ、心配しないで、あなたの妻マリアをめとりなさい。彼女がみごもったのは聖霊によってなのだ。彼女は一人の男の子を産むであろう。あなたはその子をイエスと名づけなければならない。その子はその民を罪から救うからである』。これらことすべてが起きたのは、預言者をとおして主によって言われたことが成就するためであった、
 『見よ、乙女がみごもって一人の男の子を産むであろう。そして人はその子を《インマヌエル》と名づけるであろう』。翻訳すると《われらと共に神はおられる》という意味である」ルツ訳。
 18節の「由来」は1:1の「系図」と同じ「ゲネシス」。「婚約」においては、婚約した女性は自分の親の家にいるが、相手の男性との性的な関係は結んでいない(現代の解釈、ルツの注解)。「婚約」「一緒になる」は解釈が分かれている。古代の教父たちは「婚約」を婚約した男性の家でその男性との三年間《同棲》することであって性的関係を前提としていた、そして子供が生まれた時点で両者は「正式に結婚する・一緒になる」と解釈した。「まだ一緒になる前」を彼らは「この三年間」とみるのである。しかし婚約の時点ですでに両者は「夫、妻」と呼ばれていた、19、20節。
 19節からヨセフが物語の中心に登場してくる。《婚約者マリアの妊娠がどのようなものか》、ヨセフが単なる妊娠のみを知つていたか、聖霊による妊娠をも知つていたかどうかで、ヨセフの行動の解釈は変わってくる。聖霊による妊娠まですでにヨセフが《知つていた》とすれば、神によって身ごもるような女性を娶ることなど、恐れ多くてとてもできないという、神への恐れからヨセフはマリアとの結婚を断念しよつとした、と解釈できる、カトリックの立場に多い、19節。この立場によると20節の「恐れるな」をその意味で解釈する。
 他方ヨセフは《聖霊による妊娠》は何も知らないで、ただマリアの妊娠のみを知つた場合、申命22:23以下にあるように「姦淫した婚約者」は石打ちの刑が課せられる状況にヨセフが直面したことになる。ヨセフは一般の離婚と同様に「離縁状をつけて離縁する」(マタイ5:30)という「女性には恥ずべき事態を公然化させる」行動もあるいはできたが、そうしなかった。彼は「マリアのことで騒ぎになることを欲しなかった。それで密かに彼女を離縁しようと決心した」11:l節。「マリアの名誉を守ってあげる」これがヨセフの「正しさ=律法への忠実さ」である。彼は律法を愛の戒めの意味に受け取っていたのだ。
 20節。み使いの姿、出現の様子などには一切ふれられていないで、ポイントはみ使いの《告知》におかれている。「恐れるな」はみ使いなど神的存在の出現の場合の定型的表現。しかしヨセフがマリアの妊娠を「聖霊によるもの」と知らない場合には「恐れず、心配しないで」の意味合いが強くなる。「夢にみ使いが出現する」という事態は、2:13、19にも述べられている。この夢のお告げはヨセフの難局を打開する。
 21~23節。イザヤ7:14の引用。21節の「ダビデの子ヨセフよ」は重要。ヨハネ伝における「天上のロゴスの受肉」はイスラエルの歴史と無緑であり、またルカ伝のみ使いの告知においてもヨセフがダビデの家系の出身と出身地が言及されるだけであり(ル力2:4)、み使いもマリアにのみ出現する、ルカ1:20以下。これに対して、マタイでは1:2~17でヨセフの「ダビテの子孫」である点、イスラエルの歴史における《メシア預言の伝統》がこの一点「ダビデの子ヨセフよ」の呼びかけに収斂されている。そして今やメシア出現が預言されていた「ダビデの家系」に、神による行動「聖霊による御子の誕生」が植え込まれる。
 「聖霊による妊娠」。「聖霊によって身おもになった」(18節)「彼女が身おもになったのは聖霊による」(20節)には「聖なる結婚」すなわち「神々と人間の女性との結婚・ヒエロスガモス」の意味はない。言い換えると、マリアの性的な相手として聖霊が考えられているわけではない。ルカ1:34以下における聖霊による妊娠についてカール・バルトは「男性による子の誕生を排除したもの」と解釈しているが、マタイ伝ではこの解釈は妥当しない。というのは《ヨセフの父性》がここでは極限に至まで強調されているからである、後述。「イエス」はへブル語「イェホシュア」の翻訳語で「ヤハウエは助け」という意味だという、ルツ。ヘブライの考えでは実態と名は同一である。なぜ「イエス」と名づけるかは、後段に示される「彼はその民をその罪から救うからである」。「民」はマタイでは神の民イスラエルを、また「罪から救う」は罪の赦し(9:8、26:28)を意味する。イエスの名も「ユダヤ人の王」(2:2)という称号も「イエスイスラエルのメシアである」ことを告げているのだ。ヘブル語のインマヌエルをギリシャ語に翻訳したのは、23節後段、ヘブル語を理解できないユダヤキリスト者の読者を想定しているからだ。
 マタイ伝においては《預言とその成就》という考えは全体を貫いている、22節。メシアの誕生もその一つである。ここではイザヤ7:14が取り上げられている。イザヤのヘブル語原典では《アルマー・若い女》となっている部分を70人訳・ギリシャ語訳は《パルテノス:処女》と翻訳した(「若い女」を意味する「ネアニス」でもよかった)。
 《イエスの処女からの誕生・処女降誕》は特に19世紀はじめ以来、批判的に論争されてきた。シュラエルマッハーは、処女降誕をイエスの無罪性の根拠となりえないとして、また処女降誕をマリアの無罪性を主張するものとして拒否したという(カトリックはむろんマリアの「無原罪の懷妊」を主張する)。現代では、アルトハウス、ブルンナーは(彼は「受肉」のほうを採用した)処女降誕を拒否する。バルトは、処女降誕を支持する唯一の神学者である。
 しかしイザヤの引用のポイントはむしろ《インマヌエル・われらと共に神はおられる》にある。「マタイにとって処女降誕は、マタイの信仰の中心的な内容ではなく、イエスが《インマスエル》でありたもうことを理解するのを助ける基盤にすぎない。しかしながらこの処女降誕が重要となるのは、《インマヌエル》を具体的に考えるのに助けとなるからである」ルツ。
 イエスの誕生記事は、イエスがその生涯のある時点(十字架の死)から神の御子になったのではなく、誕生の時点ですでに神の御子であったことを告げている。神が歴史の中でイエスの誕生という具体的な行動をなさった、それがイエスの誕生であった。イエスはそれゆえ私たちの罪を赦すお方、インマヌエルである、と誕生記事は伝えている。