建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、賜物の多様性  ロマ12:3~8

1997-51(1997/12/28)

賜物の多様性  ロマ12:3~8 

 「というのは、私に与えられた恵みによって私はあなたがたの中の各人に言う、《企ててはならないことを超えて、企ててはならないからである。むしろ神が自分に分け与えてくださった信仰の尺度にしたがって《思慮深くあるように企てなさい。
 というのは私たちが一つ体に多くの肢体を持っているように、肢体はすべて同じ機能をもっていないからである。そのように私たち多くの者は互いに肢体の関係にあるが、キリストにおいて一つの体なのである。私たちは自分に与えられた恵みにしたがって、別の、恵みの賜物をもっている。すなわちそれが預言であれば、信仰に対応したものとしてて、それが奉仕であるなら、奉仕を、それが教師であれば教えることを、牧会者であれば、牧会を、賜物を与えられた者はそれを実直になしなさい。管理者の務めをもつ者は打ち込んでなしなさい。慈善をなす者は喜んでしなさい」ヴィルケンス訳。
 パウロはローマ教会へ勧告する自分の資格を「私に与えられた恵みによって」という。すなわち「使徒としての権威」にもとづいてであると。
 5節。ここでは「キリストの体」という見解が取り上げられている、第一コリ12:27。すなわち全体性としての「体」は多くの「肢体」をもっている。そして各々の「肢体」は独自の機能、それそれ異なった、別の機能をもっている、4節、第一コリ12:4以下。しかしながら肢体自体の多様性、肢体の機能の多様性にもかかわらず「私たち多くの者は互いに肢体の関係にあるが、キリストにおいて一つの体である」5節。コロサイ1:18、24に「キリストの体なる教会」という表現がでてくるか、それは「キリストの神秘的な体」を意味している。しかしここでは「有機体説」信仰共同体を人の体にたとえる考えが前面にきている。肢体、すなわち一人ひとりのキリスト者は「イエス・キリストに」その存在の場をもっている。人は洗礼において、このキリストの体、有機体へと接木されてその一員、その一肢体となる。肢体、個々のキリスト者は互いにさまざまの関わりをもちつつ、いかなるキリスト者も全体性としての「体」を代表するものではないが、個々の者、肢体、はなくてはならない者でもある。
 「賜物・カリスマ」はキリスト者が「恵みによって与えられた」ものである。したがって生れながらに所有している能力は賜物ではない。このポイント「相異なる賜物」を6節以下で展開している。教会において互いに異なる賜物(カリスマ)をもった者は自分の機能を十分に働かせなければならないと。6節後段~8節。キリスト者はすべてキリスト者になって以来、キリストの出来事における恵みに与っている。この恵み(カリス)のカリスマ(賜物)が各キリスト者において「別の、異なったもの」であること、また互いに異なった賜物をもつ者は教会生活のために役立てるべきである。信仰共同体、教会においては、この賜物の所有者は二つの規定をうけている、一つは与えられた賜物は、多様であり互いに欠くことのできないものであるので、十分にそれを生かすべきである。もう一つは、その賜物を生かす場合には、他方で制限を受けるという、規定である。
 「預言」は、説教つまり「教会員の徳を高める」「警告・訓戒」「慰め」のこと、第一コリ14:3。パウロの教会には、霊的な指導者として、この「預言者の職務が存在していた」ことが前提とされている。預言すなわち「預言者的な説教」は「信仰にふさわしく」なされるべきであると、パウロはいう。
「信仰に対応した・ふさわしく」は、論議されたポイントである。「信仰」の意味内容として、その人の主体的・主観的信仰のことなのか、それとも一般的・客観的な信仰の尺度、教会の「ドグマ・伝承された教理」(第一コリ15章)にのっとった、という意味なのか。後者であると解釈されている。といっても「預言的な説教」が即「教理的な説教」であるべきだ、というのではなく、キリストの死と復活についての信仰伝承について語ること自体が、個々の信仰者にキリストの生命にふれさせ、信仰をインスバイヤーする、これが預言すなわち説教の内容の規範「教会員の徳を高め、訓戒、慰める」第一コリ14:3である。キルケゴールは言った「真理は建徳的である」と。パウロは、教会における新約聖書の「預言者」の立場を、第一コリ12:28で「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師…」と位置づけている。これが巡回の預言者なのか、その教会に定住した存在なのかあきらかではないが、ローマの教会には預言者がいたことを前提としている。
 「奉仕・デアコニア」は用語としては《宣教の奉仕・務め》を示している、11:13、第二コリ3:7~9「死の務め、霊の務め」。また信仰共同体における神への奉仕、エペソ4:12「奉仕の業」を意味する。しかしここでは特別の「奉仕の職務」すなわち教会における、弱い者や貧しい者へのあららゆる種類の慈善的な世話の務めを指している。例えば、第二コリ8:4、9:12以下では、献金を集めることが「聖徒たちへの奉仕」「援助の活動」といわれている。