建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、勧告  ロマ12:11~16

1998-2(1998/1/11)

勧告  ロマ12:11~16

 「物事に熱心で投げやりでなく、み霊に燃え、時に仕えなさい。希望のうちに喜び、患難に耐え、たゆまず祈りなさい。聖従たちの欠乏を共に担い、旅人をもてなすことにつとめなさい。
 迫害する者たちを祝福しなさい、祝福して、呪ってはならない。喜ぶ者たちと共に喜び悲しむ者たちと共に嘆きなさい。互いに一つ思いを抱きなさい。高いものを志すことなくむしろ自分たちを低いものに身を屈しなさい。あなたがたの間で自分たちを賢いとみなしてはならない」。
 11節の、「熱心で」には主語はないが、「奉仕」(8節)ばかりでなく、キリスト者の共同生活において「熱心で」ということ。「み霊に燃えて」は、私たちに与えられた神のみ霊に燃えること、行伝18:25。「熱心で」とこの「み霊に燃え」はテンション、ポルテージの高さニュアンスがある。この燃焼は一時的なものではなく、燃え続ける火として表現されている。黙示録3:11によれば「熱心でないこと」は最惡のふるまいである、「あなたがたは熱くもなければ、冷たくもない。冷たいか熱いかであってほしい」。ここの「熱心で、み霊に燃え」は「熱い」ことである。この「熱さのボルテージの高さ」はどこから出てくるかはしるされていないが、終末論と関わるであろう、現在の時間のながれが、このままに継続されるという「時の意識」から生まれてこない。むしろ「目をさましている」(マタイ24:42、第一テサ11:6、第一コリ16:13、黙示録3:3)から出てくる。自分の生涯の終りの意識からも。「何も燃えないところには、光はなし」ケーゼマン。
 後段「あらゆる瞬間に仕える用意をしなさい」は読み方が難しい。「主に仕えなさい」協会訳、リーツマン、バウア一。「主に仕える用意をしなさい」ヴィルケンスなど。ヴィルケンスは「これをキリスト者共同体の形成」と解釈している。
 他方「時・時代に仕えなさい」の訳は(13:11参照)、ツアーン、バルト、ミへルなど。「あらゆる瞬間に仕える用意をしなさい」ケーゼマン訳は、何に仕えるのか、目的語を欠いているが、どちらかといえば、この立場を本来のものとみる見解。「主につかえる」か「時に仕える」かは明確には決められない、と彼は述べている。バルトは「時代に仕えよ」の代表者であるが、こう解釈している、「諸君は《時代に仕え》、心から時代に服従するがよい。そして時代のあらゆる偶然性を突き抜けて、その彼方にある時代の最も深い批判的な内容にまで肉迫するがよい。そして《時代に仕えること》に、かえって《時代的ではなくなる》」。「時・力イロス」は「終末、主の来臨を待ち望む今」と解釈でき考から、文脈的には前「熱心、み霊に燃えて」という生き方、後の「希望、患難、迫害=14節」の状況と適合する。
 12節全体は、希望の状況を反映している。「希望」の意味はここでは善き状況を期待するといった、ギリシャ的な希望の形でも、旧約聖書的な信頼と同義語となる、希望の形でもない。むしろ終末論的な将来、すなわち世の終りと主の来臨に確信をもって手を差し伸ばすこと、ケーゼマン。パウロはこの希望が喜びを根拠づけるという。言い換えると、希望のないところ、パウロのいう意味での、主の来臨への待望という希望の存在しないしないところでは、希望に根拠づけられた「喜び」も存在しにくい、といえる。しかもこの「喜び」は現在の苦境、すなわち「患難」「迫害」の中で生まれることを、パウロは前提にして勧告している。主の来臨への待望という希望の形が《現代のキリスト者》にどれだけリアルに把握されているか、チェックされる箇所である。パウロの場合、この希望は決して「死後の希望」の形ではなかっただけに、この希望の形の真剣な検証が特に要求される。それとの関連で、主の来臨への希望に同伴している、この世の終末についての意識は現代のキリスト者にもかなりな程度リアルに体験されうる。それは自分の存在の終り、死の意識である。世の終りに直面している意識は、自覚された自分の存在の終り、死の意識とよく似ていると感じられるからだ。ここで問題となるのが「死後の希望の形」である。現代において希望のテーマが焦眉の問題となっているのは、病人においてである。そして病者の意識であろうとも、死後の希望の形は幻想としてはなく、ますますリアルな問題になってきている。
 「患難に耐え」の「耐える・ヒュポモネオー」は決して受身の「甘受・忍耐」の意味ではなく「持ちこたえる、抵抗する・standhalten」こと、「力をこめて肩で重荷を担ぐように、試練と向きあわねばならない」ケーゼマン。ここでも「耐える力」は希望から与えられる「キリストに対する希望の忍耐」(第一テサ1:3)、すなわち「希望にもとづく忍耐」である。希望のないところでは「忍耐の力」は湧いてこない、むしろ絶望ゆえの破壊と暴力が起きる、ブロム「希望の革命」。