建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、強い者と弱い者2  ロマ14:7~12

1998-11(1998/3/15)

強い者と弱い者 2  ロマ14:7~12

 「私たちの内で、自分自身のために生きる者は一人もいないし、また自分自身のために死ぬ者も一人もいない。というのは私たちが生きているのなら、主のために生き、死ぬのなら、主のために死ぬからだ。私たちが生きるのも、死ぬのも、主のものである。というのはキリストが死んで生きたもうのは、死者と生ける者とを支配するためであるからだ。それなのに、あなたはどうして自分の兄弟を審くのか、自分の兄弟を軽蔑するのか。とにかく私たちすべては、神の審判の前に立たなくてはならないであろう。聖書にこうしるされているからだ、『主は言いたもう、私は生きている。すべての膝が私の前にかがみ、すべての舌が神を栄誉を帰すであろう』。私たち各々は、自分自身のために神に申しひらきをしなければならないであろう」
 7~8節は、キリスト者が受けた「洗礼」が想起されている。「自分自身のために生きる者はいない、自分自身のために死ぬ者はいない」は、キリスト者が洗礼においてキリストに結合されて「キリストと共に生きる」(6:8)のであるから、「自分自身のための生と死」という独善とエゴイズムから解放されて「生命の新しさに歩む」(6:4)、すなわちキリストとの死と復活に与ること、洗礼は(6:5)キリスト者の人生、存在の更新を実現する、これが「自分自身のために生き、自分自身のために死ぬ」から「主のために生き、主のために死ぬ」(8節)への転換である。「キリストがすべての人のために死にたもうたのは、生きている者が、最早《自分のためではなく、自分のために死んでよみがったかたのために生きるため》である」(第二コリ5:15)。「生きるも死ぬのも主のため、はパウロにとって日常生活におけるキリスト者の規範である」(ケーゼマン)。これがキリスト者の生き方の基本であり、この基本には「私たちは主のものである」との認識、信仰告白(8節後段)がある。これがパウロの見解である。
 9節。「主が死に生きたもうたのは、死者と生ける者を支配するためであった」は、死はキリストの支配を限界づけることができないこと、言い換えると、人間は一般に生理的な生命の終焉・死を絶対的に自分たちの存在を限界づけ限定づけるものと考えているが、パウロは「キリストは死者・『イエスにあって眠っている者たち』の支配者でありたもう」との見解で《地上的な生命の終り・死に対して重大な修正》をなしたといえる。キリストが死者の支配者であることによって《死はキリストの支配からの離脱ではなくなった》。そして、第一テサ4:14以下によれば、主の来臨に時「キリストあって死んだ者たちがまず最初によみがえらされる」(4:10)。このように死はその者の「存在の終り」ではなく「キリストにある眠り」への「脱出口・移行」である(バルト)。「死は新しい生命への入り口である」ハイテルベルク信仰問答
 さらに死者も生ける者も、生けるこの唯一の主に属すことで、生ける者の間にあるささやかな対立、強い者と弱い者との対立をも克服させる。
 10節。キリストは死者と生ける者の主である、ばかりではない。強い者と弱い者との主であり、 調停者である。「あなたの兄弟を審判するな、あなたの兄弟を軽蔑するな」において、「あなたの兄弟」という用語は強調されている。ここではこの勧告は二つの根拠からなされている。一つはキリストの苦難、救いの行為からである。キリストは私たち罪人のために死にたもうた(5:8)、私たちに代わって、軽蔑され、さばかれた点。この方のみ霊は兄弟たちの間にある相違、肉を食べる者と食べない者との相違を乗り越えて、兄弟に弱い兄弟を受け入れさせる愛を実現させる点。
 もう一つの勧告の根拠は、「終末への待望から動機づけられている」(ケーゼマン)。10節後半「私たちすべては、神の審判の前に立たされるであろう」からである。神の審判の前に立たされる場合、キリスト者が自分に対する神の審判に対して一番願うのは「自分に対する神の慈悲・寛容さ」である。パウロは現在の教会生活、他の考え・生き方をしているキリスト者への「寛容」を要請したのだ。
 11節は、自由な引用である。「主は言われる、私は生きている」の部分はイザヤ49:18の中段からの、また「すべての膝は・私の前にかがみ、すべての舌は」はイザヤ45:23の後段から、「神に栄誉を帰すであろう」はピリピ2:11からの採用である。
 12節は最後の審判において個々人が「神に弁明させられる」定めを述べている。
 キリストが死者と生ける者との支配者でありたもう事実から、キリスト者は、他の生活の仕方をしているキリスト者、他の考え・生き方をするキリスト者を「受け入れよ」、彼らに竟容であれ、さばいたり軽蔑するな、と勧告されている。