建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、キリストの模範2  ロマ15:7~13

1998-18(1998/5/10)

キリストの模範2  ロマ15:7~13

 「それゆえ、互いに受け入れなさい。キリストが神の栄誉のためにあなたがたを受け入れて下さったように。というのは私はこう主張したいからだ、キリストは神が信頼するに足ることを示すために割礼の者たちの僕となられた。父祖たちに対する約束を妥当なものとして確証するためであった。しかも異邦人は憐れみのゆえに神を讃美するようになれ、こうしるされているように、『それゆえ私は異邦人の間であなたを賛美し、あなたのみ名をほめたたえたい』、さらにこう言われている『すべての異邦人よ、主をほめたたえよ、すべての国民よ、主をほめたたえよ』。またイザヤは言っている『エツサイの若枝から諸国民を支配する支配者が起こるであろう。諸国民はこの方に希望を抱くであろう』。
 希望の神がすべての喜びと信仰における平和とをもってあなたがたを満たしてくださるように。それによって聖霊の力をとおしてあなた方を限りなく希望にあふれるようにするためである」ヴィルケンス訳
 まずキリストの行動「強い者も弱い者も両者・あなたがたを受け入れてくださった」がキリスト者の「相互の受け入れよ」との勧告の根拠づけとされている、7節。そしてキリストのこの受容が「神の栄誉を現した」が、そればかりではない。キリスト者が「互いに受け入れること」自体も「神の栄誉を現す」のだとパウロは説く。これは驚くべきことだ。「神の栄誉・栄光を現わす」とは、キリスト者個人が神の栄誉のために偉大なる行動をする、地の果てまで伝道にいくとか、殉教するとかにとどまらない、キリスト者らが共同体において対立、争いをやめて、互いに相互の相違をふまえて、受け入れあうことだという。「神の栄誉を現わすこと」が決して個人主義的ではなく、共同体的であって、しかもキリストの行動に根拠づけられたものである点は、ここの眼目である。したがって一つの共同体における抗争ばかりでなく、教会史における教派間の抗争(ドイツ30年戦争有力教派による小教派の迫害など)も、神の栄光を現すものではない。
 パウロの見解はここで終末論的である、すなわち、「キリストは割礼の者たち・ユダヤ人の僕となられた」のは、「神が信頼に足るおかたであること、父祖たちに対する神の約束を確証するためであった」。「僕・デァコノス」は「奴隷・デューロス」と違って、神の委託を果す機能存在のこと、「仕える者」。この機能はユダヤ人・割礼の者の律法を成就し律法から解放した「律法の業によらない信仰による義」として。父祖たちに対する約束とは、神によるメシア・み子の派遣を意味するが(12節=イザヤ11章)、この約束は、キリストの贖いの死をもって終末論的に実現した。
 さて異邦人はどうなるのか。パウロはキリストが「無割礼の者の僕となられた」とは述べていない。ユダヤ人の場合には「父祖たちへの約束の確証」といわれたが、異邦人の場合には直接「神の憐れみのゆえに、異邦人が神賛美をするようにならんことを」という、9節。ここの「神の憐れみ」とは、キリストの死と復活が無割礼の者、すなわち非ユダヤ人、異邦人の諸国民の救いの根源となったことを指す。キリストの死と復活は、義ならざる者を義とするからだ。
 しかもパウロによれば、「異邦人の神賛美」というポイントは、実は救済史的な文脈をもっていた、それまで明確に気づかれることはなかったが。この文脈がパウロが引用した次の箇所に出てくる。
 9節後半は、詩18:49の引用。10節は、申命32:43からの引用。11節は詩117:1の引用。12節はイザヤ11:10からの引用。いずれも70人訳である。これらの箇所はいづれも「異邦人による神賛美」を述べている。特にパウロは、エッサイの若枝なるダビデの子、という来たるべきメンアの告知は、キリストにおいて成就とみている。このキリストは「諸国民を支配するお方」であって、注目すべきことに、イザヤは「諸国民はこのお方に希望をいだく」といっているが、この希望もキリストによって実現した。「神の憐れみ」が異邦人にも向けられ、異邦人が神に受け入れられることは決定的な終末論的な出来事である、ケーゼマン。申命記の引用、10節にも、異邦人とユダヤ人・イスラエルが共に神賛美をする、この事態は、今や現実のものとなり、ローマ教会においても実現している。特に11、12節にある「諸国民・ラオイ」(12節の協会訳は「異邦人・エトネー」)による神賛美は、世界的・宇宙的な広がりをもつと言っており、パウロキリスト者の神賛美、神礼拝が全世界的な規模でなされているとみている。
 13節の「希望の神」とは人に希望をいだかせる神という意味であり、希望は神からくるとの意味である。パウロは13節の執成の祈りで、この希望を展開しているーー神が希望を与えてくださる時、この希望には御霊の場物である「喜びと平和・平安」をともないそして希望は神が与えてくださるのだが、言い換えると希望は「信仰におけるもの」つまりキリストへの信仰から起こってくるものである、さらにキリスト者が信仰において神に信頼するところでは、希望に満ちあふれる状態へと導かれる、希望の横溢は「聖霊の力をとおして」起きるからだ。