建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

癒し  ルカ4:31~41

1998-22(1998/6/7)

癒し  ルカ4:31~41

  「そしてイエスガリラヤの町、カペナウムに下られた。そして安息日に教えられた。人々はイエスの教えに驚いた。というのはその言葉に《全権》があったからだ。その会堂には汚れた悪鬼の霊につかれた一人の人がいた。そして彼は大声で叫んだ『ああ、ナザレ人イエスよ、私たちがあなたとどんな関わりがあるのですか。私たちを滅ぼすためにあなたは来られたのですか。私たちはあなたを知つています。あなたがどなたかわかっています。神の聖者です」。イエスは彼を叱りつけて言われた『黙れ、あの人から出ていきなさい』。すると悪鬼はその人を真ん中で投げ倒してその人から出ていった。その人は何の傷も受けなかった。そして一部始終に全員が《畏怖の念をいだき》互いに語り合って言った『この言葉はいったい何なのだろう。《全権と力》をもってイエスが汚れた霊たちに命令すると、霊たちは出ていくとは』。そしてその周囲のあらゆる場所にイエスの評判は広まった。
 イエスは立って会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑は高熱にかかっていた。人々が彼女のことを嘆願すると、イエスは彼女の上に身をががめて高熱を叱りつけられた。すると熱が去って、彼女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした。
 日が沈んで、さまざまな病気で苦しんでいた全員を人々はイエスのもとに連れてきた。イエスは彼らのひとりひとりの上に手をおいてお癒しになった。悪鬼たちは『あなたは神のみ子です』と叫んで言って 多くの人々から出ていった。悪鬼たちはイエスがキリストだと知つていたので、イエスは悪鬼たちをしかりつけ、ものを言うのをお許しにならなかった」ボフオ訳
 31~37節はマルコ1:21~28が並行記事。31~37は、イエスの《汚れた霊の追放》の話で《イエスの全権》がポイントである。「全権・エクーシア」は「権威」とも訳され、「神からきたところの全権」の意味でイエスが「御霊を受けた人」であることに由来する。具体的には、イエスの独自の聖書解釈、21節、罪を赦すとの宣言、5:24、それにここにある癒し奇跡を行なう権能など。この癒しにおいてイエスの全権は「悪魔の力」と対決している。「汚れた悪鬼の霊」(33節)は、神性や畏怖すべきもの、人間存在と神的存在との中間的な存在で、惡魔に仕える存在として人間に圧迫を加える存在と考えられていた。この「悪鬼の霊」はイエスの出現を「私たち・悪鬼の世界へのイエスの介入」とみなして、「悪鬼を退治にこられたのか」と悲鳴をあげた。この「悪鬼の霊」は人間より上の存在であるから、「いまだ人々の気づかないイエスの正体」をはっきりと知つている、「神の聖者」と34節。この表現は、イエスの神との関係、神から委ねられたイエスの預言者的使命を示すもの。これに対して「イエスの全権」は「言葉と結びついて」発揮される「黙れ、その人から出ていけ」35節。「黙れ」との命令は「口輪などで口をふさぐ」ことで、事実上悪鬼に対するイエスの勝利、悪鬼の屈伏を意味する。「この言葉で」悪鬼は降伏しその人から出ていくが、その際にその人を「投げ倒した、しかしその人は何の怪我もしなかった」という、35節。36節の、人々が「驚く」は「恐れと瞠目」を意味する。だから「びっくりする」塚本訳より強い内容で、「畏怖の念をいだく」こと。イエスの発せられた「言葉」は、「全権の力」に満たされていて、その言葉が悪鬼の世界に勝利したからだ。悪鬼の霊につかれた人はその霊から解き放たれたのだ。イザヤ61章の引用の言葉はこの癒し、悪霊の追放においても「成就した」。
 38~39。シモン・べテロの姑、つまりペテロの妻の母の癒し。場所は会堂から「シモンの家」に移る。この姑が高熱にかかっていて、シモンとその妻がその熱病の癒しをイエスに頼んだのだ、38節後半。「近寄って、身を屈める」イエスの動作は、相手に癒しの息を吹きかけることを示す。他方「高熱を叱りつける」は癒しをなさるメシアの独特の表現で高熱の癒しの行為。この動作で姑の熱はひいて、起き上がった。姑が「彼らをもてなした」はむろんこの癒しが現実に起きたことを確証している。そればかりではない、この「もてなし」はイエスへの随順を示すもので、具体的には食事の提供とその経済的な負担をする行為である。
 「日が沈むと」は、安息日には病人を運ぶことが禁じられているので、日没で安息日が終わるので、はじめて病人を運ぶことができた。「一人一人の上に手を乗せて癒す」は、「病気の癒し」の場合、イエスの存在から病を癒す力が病人たちへと移動させる行為のこと。
 41節はこれに対して「悪霊追放」の記事であるが、惡鬼たちは、34節と同様イエスの称号「あなたは神のみ子です」「イエスがキリストである」を知って、口に出した。しかしながら悪鬼たちのこの「言葉」は、けして「信仰告白」ではない、彼らがイエスの出現にふるえおののき、それで悪鬼たちは防衛・生き延びる手段としてこの告白をした。しかしイエスは悪鬼たちをしかりつけ、ものを言うことをお許しにならなかった。つまりイエスは悪鬼の不当な要求を拒絶して、彼らに沈黙命令を出し、悪鬼たちを人々から出ていかせた。ここでもイエスは悪鬼たちに勝利された。