建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

大漁  ルカ5:1~11

1998-24(1998/6/24)

大漁  ルカ5:1~11

 「群衆がイエスのもとに押しかけてきて、神の言葉を聞いていた時のことである。イエスはその時ゲネサレ湖のほとりに立っておられて、岸辺に二そうの小舟があるのをご覧になった。漁師たちは舟からおりて、網を洗っていた。イエスはその内の一そう、シモンの舟に乗り、彼に頼んで陸から少し離れたところに出た。イエスは座って舟から群衆を教えられた。
 話しおえた時、シモンに言われた『水深の深いところ出て網をおろして、漁をしなさい』。シモンは答えていった『先生、私たちは一晩中ずっと働きましたが、何もかかりませんでした。でもあなたの言葉どうりに、網を入れてみます』。そして彼らがそのとおりにした時、たくさんの魚の群れが入って、網が裂けそうになった。そこで彼らはもう一そうにいる仲間に合図して、手助けしてもらうことにした。仲間がきて、両方の舟を(魚で)いっぱいにしたので舟が沈みそうになった。シモン・べテロはこれを見た時、イエスの膝の前にひれ伏して言った『私から離れ去つてくだい、私は罪深い人間なのですから、主よ』。彼もすべて者も漁獲に驚いてしまったのだ。ゼベタイの子、ヤコブヨハネもシモンの関係者であった。そしてイエスはシモンに向って言われた『畏れるな、今から後、あなたは人間たちを生け捕りにするようになるであろう」。そして彼らは舟を陸にもどし、すべてを捨ててイエスに随順した」ボフオ訳
 場所はゲネサレ湖、つまりガリラヤ湖の岸辺である。イエスは群衆に教えられようとしていたが、場所的に狭いので、小舟で湖に出て、その舟から群衆に教えられようとされた。
 すべてはイエスが岸辺の二そうの小舟をご覧になったことから起きたことである。
 シモン・ペテロに向って、イエスは水深の深いところで、再び漁をしてみなさいと指示された。ところが、シモン、ヤコブ、 ヨハネはすでに一晩中漁をしていたが、漁獲は全くなかった、仕事は空しく終って、彼らは途方もなく疲れていた。
 シモンのイエスへの呼びかけ「先生・エピスタータ」(5節)はユダヤ教のラビ、まして「主」の意味はほどんとない。この呼称は世俗的な意味では「親方」の意味である。シモン自身はこの漁舟の所有者であるから(3節「シモンの舟」)いわば「親方」であって、他者から何か指示される必要のない存在である。しかしながらこのシモンは敢えてイエスを「先生」ニュアンス的には「親方」と呼び、イエスの高い地位と権威とを受け入れている。シモンの言葉「お言葉どうりに…」(5節)は、イエスに対する彼の信頼の念が沸き起ってきたしるしである。
 シモンらはイエスの指示どおり「水深の深いところに、網を入れた」ところ、網におびただしい魚が入って、網そのものを裂きそうになった。最も難しいのは網を引き上げる作業であるが、かかった魚を失うよりも、網を裂いてしまうことのほうが大損害になる。シモンと仲間は網を引き上げるのを中断して、もう一そうの舟を呼び寄せた。そして二そうで網を引き上げたが、漁獲が多すぎて、二そうとも沈みそうになった。
 しかしながら、漁が大漁であったのを知った時、シモンはイエスの前にひれ伏した。その場所が舟の中であったか、それとも波打ちぎわであったかはしるされていない。この行動「ひれ伏す」は神的存在に対する宗教的な行動である。一方ではこれは「帰依」の行動であり、他方では生き延びる手段である、「私から離れ去ってください」8節。
 9節の「漁獲に驚いた」。「奇跡的な大漁」は人間の業としては到底考えることもできないので、その途方もなさ、不可能性を感じ取ったシモンも仲間もそこに人間の力を超えたもの「ヌミノーゼ的な現象」をイエスの業にみた。そしてシモンはこのイエスの業とその人格に触れて、ある種のパニック、危機に陥った。ヌミノーゼに触れることは、人間の罪をあらわにし、かつ人間を危機に陥れるからだ。旧約聖書に「神を見た者は死ぬ」とある(出エジ33:20)。8節後半のシモンの言葉「主よ、私から離れ去ってください。私は罪深い人間なのですから」はその意味である。自己の罪の深さを自覚する体験というもtは、旧約聖書以来の「神顕現との出会い」がもたらすものである、イザヤ6章など。そしてイエスへの呼かけが「先生・親方」から「主」に変わったことも意義深い。
 10節後段のイエスの言葉「畏れるな」は、神顕現において神的存在から発せられるもので、この後に恵み、救いの言葉が告げられる、いわば、定形表現である、2:10など。そしてシモンにはこう告げられた「あなたは、今より後、人間たちを生きたまま捕らえるようになるであろう」10節後半。ここはマルコ1:17「あなたがたを人間の漁師にしてあげよう」=マタイ4:19と表現はよく似ている。内容的には、シモンを弟子、伝道者として召す、召命の言葉となっている。ルカのみにある「生きたまま」は「生きたま捕らえる」ことばかりでなく「死んだような状態にある者を生き生きとした存在に生き返えさせる」という意味である(ヨハネ21:3~11では、奇跡的大漁の話は、キリストの復活顕現の文脈に置かれている)。またここでは召命は、マルコの場合とは異なってシモン・ペテロに対してだけなされている、「イエスはシモンに言われた」。ルカ伝においてはべテロの占める位置は絶大である。この点は他の福音書が弟子たち、マグダラのマリアによる復活顕現のみをしるしているのに、ルカだけがシモン・べテロの復活顕現を挙げていることからも、わかる、24:34。「ゼベダイの子、ヤコブヨハネ」はぺテロの仲間で同じく「漁師」であったが、二人もイエスに従って、弟子となった。「彼らはすべてを捨てて」持っている財産(シモンは舟を持っていた)を捨てて「イエスに随順した」。