建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

中風の者の癒し  ルカ5:17~26

1998-25(1998/6/28)

中風の者の癒し  ルカ5:17~26

 「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法学者がそこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべべての村から、またエルサレムから来ていた。イエスが癒しをされたのは、主の力によるものであった。見よ、人々が一人の中風にかかった人をベッドに乗せて連れてきた。その人を(家の)中に運んで、イエスの前に置こうとした。群衆のために、どうやってその人を運び入れるかわからなかったので、人々は屋根に登り屋根瓦越しに、担架ごと病人を群衆の真中のイエスのまん前に降ろした。イエスが人々の信仰を見た時、言われた『人よ、あなたの罪は赦されている』。すると律法学者らとパリサイ人らは論じはじめた「冒瀆を口にするこの人は、いったい何者なのだ。ただ神のほか誰が罪を赦すことができようか』。しかしイエスは彼らの考えを知って、彼らに語られた『あなたがたは心の中で何を考えているのか。あなたの罪は赦されたと言うのと、立ってこのへんを歩き回ってみよと言うのと、どちらがたやすいかを。しかし人の子が地上で罪を赦す全権を持っていることをあなたがたが知るようになるためだ』とイエスはその中風の者に言われた『あなたに言う、立ち上がって、担架をたたんで家に帰りなさい』。するとたちまち病人は人々の前で立ち上がり、自分の寝ていた物をかついで、神を賛美しつつ家に帰って行った。そしてすべて者が度を失ってしまって、神を賛美し、畏れに満たされ言った『今日は途方もないことを見た』」
 イエスの教えの聴衆としてここでは律法学者やパリサイ人が登場する。彼らは、ガリラヤ、ユダヤの各地から、そしてエルサレムからもやって来ていた。パリサイ人はイエスの活動の始めから、イエスとの間に、律法の解釈、神の憐れみをめぐって、激しい論議・対決をしていた。イエスの教えも癒しも、神の憐れみの究極的な現れとして決して通常のものではなかった。イエスの教えには「全権・権威」(4:32)をとおして、その癒しのやり方も「主の力」(5:17)によって、示された。イエスが神によって派造され、かつ御霊を持っておられたからこそ、このメシア的な活動が可能となった。
 18~20節で、焦点が当てられるのは、らい病人の癒しの場合とは違って、病人自身の「信仰」ではなく、むしろ「病人を連れてきた人々の《信仰》」である。まともな方法ではイエスの前にはたどり着けないので、「病人を連れてきた人々」は外側の階段を使ってたいらな屋根に登って、屋根のレンガ(石)を数枚はがして、その穴から患者をしたに下ろした。すべては病人をイエスの前に連れていくためであった。イエスは彼らの行動を「信仰」と呼んだ。「彼らの信仰をみて」20節前半。信仰はここでは「知的了解」といったものではなく、人の判断・決断、行動、困難な状況を切り開いていく力、病人・弱い者との連帯、こちらから近づいていって救いを求めること、を意味している(ボフオの注解)。そして「彼らのこの信仰」がイエスのみ心をとらえた。
 その患者は「中風の者」と翻訳されるか、「中風・ちゅうぶう」の意味は必ずしも明確ではない。英訳はparalytic=中風の患者、ドイツ語訳は「麻痺して動けない者」で起きることも歩くこともできない病人のことでわかりやすい。
 「あなたの罪は赦されている」20節後半、「人の子は地上で罪を赦す全権をもっている」24節前半について。24節の「人の子」は後期ユダヤ教、またキリスト教、特にユダヤキリスト者においても「メシア称号」であるが、ルカの教会・異邦人教会においては理解しがたい表現であったろう。 むろんこの「人の子」をイエスはご自分と同一のものとみなしておられる。「人の子、イエスが罪を赦すことができる」ことは、《全権》に根拠づけられている、4、32。むろん全権は、下から、人間からもたらされたものではなく、むしろ上から、神からのものであり、何かをゆるすことばかりでなく、一つの権限、一つの力でもある。
 ここでは21節の、律法学者とパリサイ人らの疑問・非難「彼らの考え」「罪のゆるしは神にのみ可能なことであり、人間がこれを口にするのは《冒願》である」は、罪の赦しをめぐるイエスと律法学者、(原始)キリスト教ユダヤ教との論議は重大な、人間の側で思いのままになるものではなかったので、白熱したものとなった。イエスの《全権要求・人の子は罪を赦す全権を持っている》は、イエスの裁判において論議の中心ポイントともなった、イエスのメシア告白の形ではあったが。そしてイエスの十字架の死をもってついえ去ったものとみなされた。そしてこの全権要求がが究極的に神によって是認されたのはイエスのよみがえりをとおしてであった。
 この中風の者の癒しにおいて眼目は、このイエスの全権要求のポイント、言い換えると「癒しと罪の赦しとの関連性」のポイントである。そしてここでは癒しは「救いの時の到来のしるし」であることをやめて、より究極的なこと「イエスが罪の赦しの全権を持っていることを《証明するしるし》」となっている、すなわち癒し奇跡は、この時期に当たって神による罪の赦しの告知と実現がイエスをとおして起きたことを証言するものとなった。
 したがって中風の者が癒されたけっこ「立ち上がって、担架をたたんで、家に帰る、神讃美」25節は、癒されたことだけを述べたものではなく、彼の、より根源的な神との関係、彼の罪が赦されたことをも、示している。といっても、イエスによる中風の者の「罪の赦し」は《目に見えない》。しかし25節の癒された者の「神を賛美しつつ」、26節の人々の反応「驚き、度肝をうしなう、神賛美、途方もないことへの畏敬の念」これらは決して癒し奇跡に対する反応のみならず、イエスによる罪の赦しに対する反応でもあった。