建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イザヤの召命(3)  イザヤ6:9~13

1998-30(1998/8/1)

イザヤの召命(3)  イザヤ6:9~13

 「主はいわれた、行って、この民に向って言え、(この民は)ただ聞くだけで、しかし理解しない。

  ただ見るだけでしかし認識しない。
  この民の心に脂肪をつけ(鈍くし)、彼らの耳を重くし、目をのりづけ(閉ざ)しなさい。
  この民が日で見ても、耳で聞き、その心が悟りに至らず、再び癒されることのないためである。
 そこで私は言った、主よ、いつまで。
 主は言われた、町々が荒れ果てて、家々に住む者たちがなく、耕地が荒野として残る時まで。
 その時には、ヤハウエは人々を遠くに移し、
 そして国の直中で、見捨てられたところが多くなろう。
 そしてその中に十分の一が残されても、それも蹂躙(焼き尽く)される。
 樫の木やテレピンの木が、切り倒された後にも、切り株が残るように、
 その切り株こそ聖なる種である」。

 この部分はイザヤの預言活動の出発点であるばかりでなく、中心部分をなすものであるが、難解である。テーマは「神がイスラエルの民を頑なにされる」という点にある。日常的にあるいは歴史的な経過の中で、「民が頑なであった」というのではない。神はイザヤに向って、「この民の心に脂肪をつけよ、鈍くせよ」と言われた。「脂肪をつける」(カイザー訳)=「鈍くする」(協会訳、関根訳)は「頑なにする」(ヴィルトペルガー訳)という意味である。マタイ13:14以下。これは《前代未聞の類例のない驚くべき》委託である。神の命令や戒めに対して、結果として、人間が「頑なになった」というのではなく、むしろ、民が頑なとなるというのは、神の行為として述べられている。イザヤ29:14では「見よ、私はこの民に、驚くべき業を行なう。不思議なことを」とある。民が頑なになる、というのは、イスラエルに対する神の特別の歴史的な行為である(フォン・ラート)。頑なになるとは、神の救いの呼かけを民が拒否するということである。
 「民が頑なである」とは、「民が目で見ても、理解せず、耳で聞いても悟らないという状況」がイザヤのまわりですでに生きた現実となっていたことを示す。「心」は現代人がイメージするような感情や意志をつかさどるのではなく、理性や悟性の機能のことで、現実認識、人間の自己理解、さらには神認識を含む。「頑な」のポイントは7章で示されている。イザヤの政治的な状況では、人々の心の現実であるばかりか、この世的な政治的軍事的力への依存という形をとり「ヤハウエに求めようとしなかった」(9:12)ことである。
 イザヤは驚いて、思わず「主よ、いつまで」と問う、11節。これに対する神の答えは「町々が荒れ果て、家々に住む人がなく、耕地が荒野として残される時まで」、すなわちエルサレムや他の町が廃墟となる時、と、11節後半。
 また12、13節はイザヤや後の弟子との後の付加部分としてしるされている。
 「その時、ヤハウエは人々を遠くへ移し」は、「捕囚」を想定させるが、北王国のアッシリア捕囚(前721)も考えられる。イザヤにとってアッシリア捕囚は活動の時期にあたる。12節後半はその荒廃した北王国の様子。
 13節はイザヤやその弟子たちよりも後代の加筆とされる。
 「十分の一」は「残りの者」の思想をいう。すでエリアの時代にこの思想は存在した、「バールに膝を屈しない七千人を残す」列王上19章。イザヤが預言する「戦乱」は徹底的な破壊をイメージさせる。それは「十分の一」からもわかる。これは「生き残る者」生存率が十分の一であることを示すからだ。しかもこの「残りの者」もさらに「蹂躙される、食い荒らされる、焼きつくされる」という。完膚なき蹂躙と破壊は絶望の状況であるがしかし、そのなかでも再生の望みが13節では「探求されている」。それは、冬枯れの木が春になって芽をふくというのではなく(ヨブ14章)、人によって切り倒された「切り株」に着目した譬えである。「樫の木やテレピンの木が切り倒されても、切り株が残るように、その切り株こそ聖なる種である」。「聖なる種」はエズラ9:2にあるもので「真のイスラエル」の意味合い。関根の注解は13節後半をエズラの時期の加筆としている。だとすれば、戦乱による徹底的破壊からでも、「切り株」からでも新しい若枝が生じる「希望」が述べられている。したがってこの「希望の源」なる「切り株」とは、破壊をかいくぐった小集団の意味合いをもつ。これは、圧倒的な大多数の中の小集団であるイザヤとその弟子たちのことであろう。彼らはイザヤのいう「頑なな人」でなかったからだ。