建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

取税人レビ  ルカ5:27~32

1998-27(1998/7/2)

取税人レビ  ルカ5:27~32

 「そしてその後、イエスは出て行かれて、レビという名の取税人が取税所に座っているのに目をとめられて、言われた、『私に随順しなさい』。すると彼はすべてを捨てて、立ってイエスに随顧した。そして彼は自分の家でイエスのために大晩餐会をもうけた。すると取税人や他の人々が大勢、彼ら(イエスや弟子たち)と共に食卓についた。するとバリサイ人や律法学者らが弟子たちにつぶやいて言った「なぜあなたがたは取税人や罪人らと共に飲食するのか』。そこでイエスは彼らに答えて言われた「健康な者たちには医者はいらない、むしろいるのは苦しんでいる人々にである。私がここにいるは、義人をではなくむしろ罪人を改心に招くためである』」。
 
ここで弟子として召された人は「レビという名」、マルコ2:14では「アルパヨの子レビ」、マタイ9:9のみが「マタイ」としている。
 「取税人」とは何か。ローマの税金を集める人間には、二種類あったようだ。第一に、ローマ人の「徴税役人」(「収税吏」という訳語がある)で、住民税と土地税の徴収の役目があった者。身分も高く財産家。第二に、彼らのもとでその地域の関税徴収の役目を高い金額で競り落としたユダヤ人の「民間徴税請負人」。規定の額以上の税を集めれば、その差額は自分たちの実入りとなるので(ルカ3:12、19章)、金持が多かったが、それゆえにパリサイ人から厳しく批判され、共同体の仲間入りができなかった。名誉ある役職にはつけず、証人にもなれなかった。また彼らが職業がら「異邦人との接触が多いこと」「荷の中をかきまわす杖が汚れた物に般れること」など祭儀的な汚れの点も彼らが嫌われた(ジュールマン、エレミアス)。ルカ19章のザーカイはこれにあたる。「罪人」(30節)というとまず取税人があげられた。
 「取税所」とは主要な都市、港、街道の要所、国境に設けられた、いわば民間の税関で通過する商品、家畜などを査定して税をとる場所。むろんレビは役人ではなく、ただの民間の取税人である。
 イエスがなぜ取税人のレビに注目・観察して弟子として招かれたかは、しるされていない。ただ彼が「恥ずべき職業」の人であった点が特徴的である。ユダヤ教社会は、取税人などを仲間から締め出すことで成立していた、したがってイエスが取税人の一人を弟子にしたことは、あるいは後に女性をも伝道旅行に同行したことは、このような社会体制への桃戦とも受け取られたろう。レビはイエスの招きに対して二つの応答をした。一つが 「すべてを捨ててイエスに随順した」。この「すべて」には家族、家、財産が含まれる。おそらくレビは多くの財産があったであろう。イエスの弟子になるとはそういうことを意味していた。これは「悔い改め」(32節)の見本的例でもある。
 もう一つが、レビが「イエスのために自分の家で大宴会をもよおした」ことである。イエスの弟子にされた者たちのうちで、大晩餐会をもよおして、弟子・救いへの招きに喜びと感謝を表した者はほかにいない。この晩餐は「取税人や他の人々、大勢」が招かれた。取税人らはレビの仕事仲間であろう。この晩餐会はレビが仕事をやめ、家を出ていく「お別れ会」でもあったろう。イエスと弟子たちも招待されていた。このように「取税人と食卓を共にする」という事態は、「神の国での飲食」をほうふつとさせる(ルカ14:15)喜びの食事であった。他方、共同体から差別され締め出されていた存在、取税人との会食は「ユダヤ教社会の規範と実質」を転倒させかねない「危険な企て」であった。
 パリサイ人と律法学者から弟子たちに対して「つぶやき・非難」が起きた。「なぜあなたがたは取税人や罪人らと共に飲み食いするのか」30節。この非難に対してイエスは答えられた、31節「健康な人に医者はいらない、いるのは病人にである。私がここにいるのは、義人をでなく、罪人を招いて悔い改めにみちびくためである」。イエスはここで「健康な人ー病人」を「義人ー罪人」、また「医者ー神に派遣されたメシア・イエス」として比喩的に語っておられる(マルコ2:17では「丈夫な者・強い者ー病気の者」)。ここでの「医者」はメシア・イエスを指している。「私がここにいるのは」は直訳では、「私が来たのは」で、イエスが神から派遺された目的を述べているが、「イエスの現在の業」を言っている。そしてこの「現在の業」とは、「罪人を招く」すなわち「神の国の晩餐へと招く」ことである、ルカ14:15以下「幸いなるかな、神の国で食事をできる者たち」。
 「罪人」は、一般に、職業に関連し、賭事師、高利貸、取税人、羊飼いなど(エレミアス)、ラビ文献には「収税吏、関税請負人ー取税人、盜賊、両替商」のリストがあるという。マタイ21:31では「取税人と遊女」とある。
 イエスはたまたま「取税人らと食卓を共にされた」ばかりではない。取税人レビを自分の弟子として、いわばご自分のふところに入れられた。イエスのふところに迎えられたレビは、「罪人を悔い改めに導く」ことが実現した喜びとして晩餐会を開いた。彼自身の心にあった怨念、金があっても共同体で受け入れてもらえない恨み、「神」からも顧みられない恨み・ルサンチマンが消えてなくなったからだ。イエスは、取税人を弟子とし、また異邦人をも受け入れること(ルカ7:1以下、マタイ15:21以下)で、ユダヤ教社会の壁に穴をうがちたもうた。