建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

12使徒  ルカ6:12~15

1998-28(1998/7/19)

12使徒  ルカ6:12~15

 「このころ、イエスは祈るために山にお登りになった。そして一晩中ずっとと神に祈っておられた。そして朝になった時、弟子たちを呼んで、彼らのうちから12人を選ばれて、同時にそれを使徒と名づけられた。すなわち、同時にペテロと名づけられたシモン、その兄弟アンデレ、ヤコブヨハネ、ビリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルバヨの子ヤコブ、いわゆる熱心党のシモンヤコブの子ユダ、裏切り者となったイスカリオテのユダである」。
 まずシモン。彼は「ペテロ」というあだ名をイエスによってつけられた、マタイ16:17以下には、このあだ名の意味はアラム語で「ケバ・岩」、ギリシャ語で「ペトロス・岩・石」。「この岩の上に私の教会を立てるであろう」と告げられ、原始教会におけるペテロの指導者として存在は決定的であった。12弟子の筆頭と考えてよい。生前のイエスに最初に弟子として召された、5:1~11。ペテロは後にローマで殉教したといされている。「最大の義なる柱(複数)がねたみと嫉妬によって追害され、死に至るまで戦った。われわれはわれわれのすぐれた使徒たちを眼前におくことにしよう。それはペテロである。彼は多くの患難を身に受けねばならなかった。そして彼はその証を立てた後に、こうして彼にふさわしい栄光の場所に行った」(「第一クレメンス書簡」5章、紀元後96年ころ)。
 弟のアンデレは、ヨハネ1:35以下によると、ペテロよりも先に洗礼者ヨハネの使信に接して、ペテロにイエスをメシアと告げている。アンデレはすでにその名がギリシャ風である、アンドレイアは「勇気」の意味。
 ヤコブヨハネは兄弟で、ガリラヤの綱元ゼベタイの息子(マルコ3:17)、「ボアネルケ・雷の子」とよばれた短気な性格。ペテロを加えたこの3人がリーダー格、マタイ17:1以下、26:37。ガラ2:9「柱として重んじられていたヤコブとケバとヨハネ」においては、ヤコブ使徒ヤコブではなく「主の兄弟ヤコブ」である。使徒ヤコブは40年ころ殉教している、行伝12:1~2。ヨハネ使徒ヨハネパウロによるとエルサレム教会の「柱」の一人。ヨハネヤコブの母はサロメといい、マタイ27:56、女性弟子の一人、ゼベタイの妻、十字架と空虚な墓の証人。マタイ20:20以下では、この母は息子たちが神の国でイエスの右、左に座らせてほしいとイエスに願い出て、愚かな母の姿を批判されている。
 ピリポ、バルトロマイは名からみて、ギリシャ・ローマ風である。その文化はガリラヤまで浸透していかことがわかる。ペテロらと同じくベツサイダの人。ピリポはヨハネ1:40以下でナタナエルをイエスにみちびいている。ヨハネ14:8参照。サマリア伝道をした人(行伝6、8章)とは別人。
 マタイはマタイ10:3、マルコ3:18、行伝1:13に出てくる。マルコ2:13以下のアルパヨの子、レビと同じ人物とされるが、ルカ5:27以下。マタイ9:9では取税人。パイビアスによると、マタイはイエスの言葉集を書いたというが、それはマタイ伝のことではない、時代が合わないから。
 トマスはアラム語でもともと双子の意味、ギリシャ語でディドモ(双子)のあだ名がある、ヨハネ11:16など。ヨハネ20章ではイエスの復活を疑った後に信じた。
 アルパヨの子ヤコブは、「小男ヤコブ」ともいわれる、マルコ15:40。彼の母は、女性の弟子の一人マリア、十字架の目撃証人。使徒の母のうち、サロメとマリアとは、重要な女性弟子に属していた点は注目すべきである。
 熱心党シモンの「熱心党・カナナイオス」は、武闘によってローマからのユダヤの独立をはかるグループ。彼らはローマへの納税を拒否し(行伝5:37)、宗教的にも律法厳守で、政治的なメシア待望のグループであったから、取税人マタイらに対して強い政治的宗教的差別意識をいだいていたはずであるが、福音書では取税人との対立はしるされていない。ユダヤ教社会の差別の構造はこの「弟子集団では克服されていた」と考えられる。熱心党に対するユダヤ人の反応は、イエスよりもバラバ(彼は熱心党員)の釈放をユダヤ人が望んだことにもうかがえるが、マタイ27:13以下、66~70年の、ローマ帝国との全面戦争においては、熱心党の線がユダヤ人全体の行動となった。イエスは納税間題でローマへの納税を肯定されたので、熱心党の線とは決定的に異なっていた。イエスにおいては反ローマの線よりも、「反ユダヤ教」の線(例えば取税人を弟子に加えられたこと律法批判)のほうがはるかに際立っていた。
 イスカリオテのユダについても、「イスカリオテ」は「カリオテ出身の」と「シカリウス・シカリというナイフによる刺客集団出身の」という読み方がある。「シカリウス」だと読めば、ユダも武闘派ということになる。ユダの裏切りの理由の解釈で間題となる。ルカが用いている「使徒」という用語は、むろん聖霊降臨の後のものである。行伝1:2。しかしマルコ、ルカでは本来「弟子」というべきところに「使徒」も用いている(ルカ9:10、22:14、24:10)。ただルカは、使徒の資格を「主の復活の証人」であるばりでなく「主イエスが私たちの間にゆききされた間、始終私たち行動を共にした人々」(行伝1:21以下)とみていた。イエスの弟子であると同時に復活顕現にも出会った人と。弟子の時期と使徒の時期を連続的に把握するのだ。パウロバルナバは前者の条件を満たしていないことになる。12弟子・使徒にはへレニスト・ギリシャ語を使うユダヤ人はいなかった。
 この12人のリストをみて感じるのは、第一に、当時のユダヤ教の専門家、律法学者、パリサイ人が入っていないこと。後にパリサイ人パウロ使徒となるが。
 第二に、12人のうちから、二人の殉教者を出したこと、ヤコブとペテロ。「殉教者の血は教会の種になる」(テルトリアヌス)の言葉どうりである。ペテロを始め、弟子たちは決して理想的な人間ではなく、弱さも欠陥ももっていた。イエス捕縛の折りにはイエスを見捨てた。しかし復活顕現に出会い、彼らは生まれ変わったように、確信に満ちた宣教者に生まれかわった。追害も死も恐れない者に。
 第三に、彼らの家族もまた真剣にイエスに随順したこと、特に女性の弟子として、サロメやマリアら。第四に、イエスの宣教は彼らによって、継続され、担われて、キリスト教として発展したこと。教会は「使徒たちという土台の上に立てられたもの」である エペソ2:20。