建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平野の説教(1)  ルカ6:20~23

1998-29(1998/7/26)

平野の説教(1)  ルカ6:20~23

「そしてイエスは目をあげて、弟子たちに語られた
 幸いだ、あなたがた貧しい人々、神の国はあなたのものだからだ。
 幸いだ、あなたがた今飢えている人々、あなたがたは満腹させられるからだ。
 幸いだ、今泣いている人々、あなたがたは笑うようになるであろう。
 幸いだ、人の子のゆえに、人々があなたがたを憎み、除名したりののしったり、あなたがたの名を悪様にいう時には。その日には喜び、躍り上がなさい。見よ、天においてあなたがたは大きな褒美を受けるのだから。あなたがたの祖先も同じことを預言者たちにしていたのだ」

 マタイ5章の「山上の説教」と並行記事であるが、 ここでは24節以下で「災いだ との部分があって、マタイと異なる。またイエスが語りかける内容も、微炒に異なっているようだ。たとえばマタイでは、イエスが語る相手は「第三人称複数形」であり、相手も「心の貧しい人々」となっている(5:3)。しかしここでは相手は弟子たちを第二人称「あなたがた貧しい人々」とある。
に焦点が当られた、 言い換えると、 彼らが 「敬虔な人々」 であるとの前提が取り払われるということになる。                                 
 さてここでの「貧しい人々についての解釈の歴史」をスケッチしたい。
 第一に、ここでの「貧しい人々」というのは、イエスの時代に、ユダヤの民衆の中に特定の敬虔な者たちの集団(アナヴィーム)が存在していて、田舎で静かに暮らしていた。彼らはパリサイ主義や熱狂主義から遠ざかり、つつましく律法を守り、終末的な希望に生きていた「メシア的敬虔主義者」であった(マルチン・デベリウス「ヤコブ書注解」)。
 第二に、貧しい人々とは、最初のキリスト者らを意味する。彼らは外面的には極めて貧困であったが、神の律法を守り、神を頼みとして神の約束の実現を待ち望んでいた宗教的運動に属す人々であった。この貧しい者をイエスが祝福されたことで、この運動に関わる人々は終末論的な教団へと高められ、その教団に「貧しい者」の名を与えるようになった(ローマイヤー「マタイ伝注解」)。
 第三に、貧しい者、不幸な者とは、この世からは何も期待できないで、すべてを神に信頼し、神に自分を投げ出して、神の前に自分を乞食として生きている人々である。貧しい者、悲しんでいる者、飢えている者らは、神だけがこの世で彼らに約束する義なしには生きられない人々である(ボルンカム「ナザレのイエス」)。
 これら三つの解釈で共通しているのは、貧しい人々がユダヤ教の「貧しい人々=敬虔な者」との連続性と共通性をもっている点である。イエスの言われた「貧しい人々」は本当に敬虔であったのだろうか。この解釈ではユダヤ教との連続性を強調することによって、イエスの貧しい人々への祝福の新しさは失われる。また罪人や取税人との交流のもつ「革命的なもの=反ユダヤ主義」も失われる。
 さて次に用語の間題をみたい。ヘプル語のアナヴィーム、貧しい人々、「主は貧しい人々の避け所」(詩14:6)を70人訳は「プトーコス」と翻訳した。
 このプトーコスは、ぎりぎりの生活をしているという意味(ぺネース)とは違う。一般の「貧しい」 とは違ってもっと貧しい人々のこと、乞食、他人の援助を頼みとする赤貧の人の意味。赤貧の寡婦(マルコ12:42)、赤貧の人(マタイ14:13)、ラザロという出来物だらけの乞食がいた(ルカ16:20)など。またこのプトーコスは施しの対象とされ、マタイ19:21、足のきかない身障者の乞食、行伝3:1以下、日雇いの者マタイ20章、辛苦している者、重荷を負っている者、マタイ11:28、大通りや路地でたむろしている者、ルカ14:21以下を含む(シュテーゲマン)。用語の問題としては「貧しい人々」にプトーコスの用語が用いられたことで、貧しい人の「社会的な観点」に焦点が当てられた、言い換えると、彼らが「敬虔な人々」であるとの前提が取り払われるということになる。
 他方眼目となるのは、貧しい人々は「経済的な面」だけを意味しているかどうか。「貧しい人々」がユダヤ教の文脈では、「敬虔な人々」と共通性をもつことはすでにみたが、預言者の文脈をももつ。特にイザヤ61:1以下、ルカ4:18以下である。そこでは「貧しい人々」は包括的な意味を持っていた。
 イザヤ61:1以下では、「貧しい人々」のほかに、「心の砕かれた者」「囚われ人」「盲人」「悲しむ者」「意気消沈した者」が言及されている。「貧しい人々はセム語の用語法では、金をもってない者ばかりでなく、包括的な意味で、抑圧された者、悲惨な者、隷属している者、屈伏させられた者を意味している。しかし決して特定の敬虔なタイプ、外面的な状況から解放された内面的な貧しい人々を意味していない」ルツ、マタイ伝注解。