建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平野の説教(2)  ルカ6:20~23

1998-31(1998/8/9)

平野の説教(2)  ルカ6:20~23

 「そしてイエスは目をあげて、 弟子たちに語られた
  幸いだ、あなたがた貧しい人々、神の国はあなたのものだからだ。
  幸いだ、あなたがた今飢えている人々、あなたがたは満腹させられるからだ。
  幸いだ、今泣いている人々、あなたがたは笑うようになるであろう」

 イザヤ61:1以下では、「貧しい人々」は包括的な意味を持っていた。
 イザヤ61:1以下では「貧しい人々」のほかに、「心の砕かれた者」「囚われ人」「盲人」「悲しむ者」「意気消沈した者」が言及されている。「貧しい人々はセム語の用語法では、金をもってない者ばかりでなく、包括的な意味で、抑圧された者、悲惨な者、隷属している者、屈伏させられた者を意味している。しかし決して特定の敬虔なタイプ、外面的な状況から解放された内面的な貧しい人々を意味していない」ルツ、マタイ伝注解。
 イザヤ61章においては「貧しい人々によき訪れを告知する」とあるが、ここでは「幸いだ、貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々は」と貧しい人々、飢えた人々、泣いている人々がイエスによる祝福を受け「神の国」を約束されている。
 むろんここでの、貧しさ、飢え、泣くはいずれも「現実の地上的困窮」(ジュールマン)「抑圧された人々・みじめな状況の中にある人々」(エレミアス)が考えられている。
 そしてこの貧しい人々にイエスは「あなたがたは神の国にあずかる と約束された。「神の国」はマタイでは「天国」。またこの翻訳は通常英語圈では「神の国・王国」、ドイツ語圏では「神の支配」と訳される。エレミアスはこれを「神の王的支配」よ呼ぶ。これは比驗的には「終末の祝宴」に譬えられる。イエスは神の王的支配が貧しい人々だけのものだ、と約束された。神が彼らを助けられると約束されたということだ。言い換えると、貧しい人々、絶望した人々(イザヤ61章における「心砕かれた者、囚われ人、意気消沈した者」)を神が助けられ、彼らに慈悲ふかいとの約束である。この貧しい人々は、絶望した者のみならず、福音書の文脈では、「義人」の対極である「罪人」(マルコ2:17)、「取税人」「遊女」(マタイ21:31)を含む。イエスはこれらの人々を「神の祝宴」に招かれる。
 ここで眼目は二つある。一つは従来の社会的体制の転倒がいわれている点である。富める者、飽食している者、幸福な者(24節以下)義人、健康な者は神に見棄てられ、貧しい人々、罪人、病人が神に受け入れられるとの「転倒」がここで起きている。このポイントはすでに「マリアの讃歌」において「主は、権力者を位から引き下ろし、低い者を高くし、飢えた者を宝で満たし、富める者を空手で追い返えされる」(1:51~53)。この点に着目したのはニーチェであり(「すべての価値の転倒」)、またこの点を強調したのは、ディベリウスである。「終末の時は、もろもろの関係を転倒させる。このモチーフの中には単に神のきわみなき至上権ばかりでなく、神の憐れみの限りなさも表現されている」(エレミアス)。
 もう一つは、この貧しい人々への約束が、決して当てにならない未来の約束ではなく、イエスが今そこで目に見える現実となっている点である。ルカ4:16以下で強調されているように、イエスが「貧しい人々に善き訪れを告知する」ことをとおしてである。またイエスの、取税人と罪人らとの会食で示されたように。「私は迷える者を探し、失せた者を連れ戻り、傷ついた者の手当てをし、病める者を強める」(エゼキエル34:16)との神の約束が成就したのだ。
 さてこの貧しい人々に対するイエス神の国・支配の告知は、彼らに何をもたらすのであろうか。イザヤ61章では、囚われ人への解放のほかに、「心砕かれた者・絶望した者への癒し、悲しむ者への慰め」が語られていた。この「癒し、慰め」が貧しい人々に実現することは彼らへの神の支配をとおして 実現している。神の助けと慈しみが彼らに今与えられた、これだけで十分であると解釈できる。「人の中で最も貧しい者は、イスラエルの聖者によって喜ぶ」(イザヤ29:19)、「主はその愛によってあなた(抑圧された者)を新たにする」(ゼパニア3:17)。
 いくつかの解釈をみてみよう。
 「神の王的支配の待望の内容にとって決定的に重要なのは、現に経験しつつある貧困、空腹、嘆きである。ここでは単にこの窮状が終りを告げることなかりではない。完全なる回復、窮乏の完全なる補償が待望されている。現在窮乏が闇のように広がっている。だからそれと同じくらい幸福は光輝いて到来するだろうということである。ユートピアを思い描く能力こそ創造的なである。…貧しい人々は夢のようにおいしい食物がすでに食卓の上にならんでいるのを見るであろう」(シュテーゲマン「貧しい人々の希望」)
 この解釈が「貧困の問題の解決」を取り上げた点は評価できる。しかし、このポイントはイエスが「貧困なきユートピア」を彼らに告げたという意味ではない。この解釈は「笑いと飽き足りる」ことを「金持の所有物」としてみなしているが、イエスの告知された神の支配の約束は「神の前での終末時の会食」であって、「笑いと飽き足りる」は神の救いの賜物を意味する。イエスが約束されたのは「ユートピアの機能」(ブロッホ)ではなく、神が貧しい人々を助けられるとの神の慈悲である。