建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

戦乱(1)  イザヤ7:1~9

1998-35(1998/9/6)

戦乱(1)  イザヤ7:1~9

 「ウジアの子、ヨタムの子、ユダの王アハズの時期に起きたことである。(アラムの王)レジンとイスラエルの王レマリアの子(ぺカ)がエルサレムに進攻して、戦争しようした。しかしアハズは戦うことができなかった。ダビデの家に『アラム[シリア]がイスラエルと同盟した』と伝えられた時、アハズの心と民の心とは、嵐の前の林の木々のように揺れ動いた。その時ヤハウエはイザヤに言われた、
 『あなたとあなたの子、シェアル・ヤシュブが出て行つて、布さらし人の野の大通りに至る、上の貯水池からのの水路の端で、アハズに会い、彼に言いなさい、
 気をつけて、静かにふるまい、恐れてはならない。この二つの燃え残ってくすぶる切株(レジンとアラム、レマリアの子[ぺカ]の怒り)のゆえに、あなたの心を弱くしてはならない。アラム(とエフライム、レマリアの子)があなたに対して災いを企て『われわれはユダに進攻して、威嚇し、陥落させて、そこにタブエルの子を王として立てよう』と言っているからだ。
 主なるヤハウエこう言われた、それは実現せず、成就しない。
 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレジン。
 (65年のうちにエフライムの民は消減する)
 エフライムの頭はサマリアサマリアの頭はレマリアの子[ぺカ]。
 あなたがたが信頼しないならば、あなたがたは確かにされない』」ヴィルトベルガー。
 7~8章はいわゆる「シリア・エフライム戦争」すなわち、シリア(アラム)とエフライム(北王国イスラエルの別称)との戦争ではなく、この両者が反アッシリア同盟を結んで、南王国ユダにも同盟への参加を求めたが、ユダの王アハズは参加を拒否し、それでシリアとエフライム・イスラエル連合軍が強引に同盟参加を強要するためにエルサレムに進攻して、これを包囲した、この戦争のこと。列王下16:5、7~9に関連記事がある。前734年。
 連合軍がエルサレム付近に進攻した時の アハズ王とエルサレムの民の狼狽ぶりと動揺ぶりは「嵐を前にした林の木々のように動揺した」2節。
 この時イザヤは神のお告げを聞きき、その内容をアハズに告げよ、と神に命じられた。3節以下。イザヤが同伴した息子の名は「シャル・ヤシュブ」、「残りの者は神に立ち返る」という意味(ツインメリ「旧約聖書と人間の希望」)。「残りの者」とは「戦乱を生き残った者」の意味で、南王国に迫った戦乱とその後の救いを暗示してきわめて象徴的なニュアンスが強い。王に会う場所「布さらし…」はエルサレム(海抜800メートル)の水をまかなう貯水池水で、軍事的重要な地点。王は見回りにきたのであろう。この地点でイザヤは重要な言葉を王に告げる、
 「気をつけて《静かにふるまい、恐れるな》」と、4節。この箇所の眼目となる言葉である。このポイントは以前にも取り上げた。この言葉の政治的・歴史的文脈は明らかだ。トレルチは「静かにふるまう」をイザヤが「ユートピア的なもの」を考えていたとみなした。またヴュトワインは「『落ち着いて恐れず』戦闘せよとの警告」と解釈する。マルチン・ブーバーはイザヤが「信頼すべき政治的プログラムを想定した」とみるが具体的内容ははっきりしない(「預言者の信仰」)。ラート自身はこの「静かにふるまう」をある種の「政治的な態度」と見るが、当時の国際的政治の力関係を正確に把握できないので、その「政治的態度」の内容もいまひとつ明らかでないという。
 当時の国際政治における巨大な政治力としては、アッシリアとエジプトが想定できる。アハズの時期にはエジプトのユダに対する影響力は影をひそめているが、次の王ヒゼキアの時期には、ヒゼキア王らはエジプトの力を支えとして「アッシリア王にそむいた」列王下18:7。他方、アッシリアの力は、アハズが依り頼んだ当のものであった。すなわちアハズはイザヤの言葉を拒否して、一歩を踏み出した。「アハズは使者をアッシリアの王テグレトピレセルに遣わして言わせた『シリアの王とイスラエルの王が私を攻め囲んでいます。どうぞ上ってきて、彼らの手から私を救い出してください』」列王下16:7。テグレトトビレセルはシリアに進攻してきてダマスコを陥落させ、王レジンを殺した16:9。このアッシリアへの救援依頼は、アハズにも重大な結果をもたした。アハズはダマスにあるアッシリアがつくった国家神のための祭壇をモデルにして「エルサレム神殿を改造する」ことを要求されて、アハズはそれに従った、列王下16:10~18。歴代下28:16~25。「アハズはダマスコの神々に犠牲を捧げた」歴代下28:23。
 イザヤの言葉「恐れるな」は、「神のみを恐れて」エルサレム包囲に向ってくるシリアイスラエル連合軍の進攻に対して「恐れるな」を意味した。しかしアハズも民も「動揺した」、2節。ここにはイザヤの国際政治における力関係への洞察があって、アッシリアがシリアとイスラエルを撃破するゆえ、この「燃える二つの切り株」(4節を)を「恐れるな」と忠告したのだ。
 「静かにふるまえ」に対して、アハズは外交的な策略をもって敵の進攻という危機的な状況から脱出しようとした。これはまさしく「静かにふるまえ」の《正反対の行動》であった。言い換えると「静かにふるまう」は、(1)危機的状況をつくり出したレジンとぺカの軍事力を恐れず、神にのみを恐れ、神のみを信頼すること、「信じる」8節。(2)アッシリアの政治的軍事的力を頼みとすることを拒否すること。またエジプトへの依存などあらゆる政治的同盟への参加を拒否して、そして神のみを頼みとする。(3)自己救済から離れること、自分たちの政治的軍事的な援助を拒絶し、神の働く場をふさぐことをしないこと、神の行動に余地を残しておくこと、を意味している、ラート。
 9節後半「あなたがたが信頼しないならば、あなたがたは立つことができない」において「あなたがた」はダビデ王朝(列王下7章でその永続性が約束された)を指しているとの解釈がある(コッホ「預言者」)。アハズ王やその側近が「ヤハウエを信頼する」ならば、南王国の王朝は「存続することができる」。この「信頼」はイザヤをとおして神が告げられた将来を無条件に信頼するということ。人間の目にはっきりと見える戦乱の危機、政治的な危機、その中にあってその危機を超えた、その危機の背後にあるもの、いわばヤハウエの業に信頼する。これがイザヤのいう信仰であり、9節、「静かにふるまう」である。