建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平野の説教(6)無抵抗  ルカ6:29~31

1998-36(1998/9/13)

平野の説教(6)無抵抗  ルカ6:29~31

 「あなたの類を打つ者には、もう一方も差し出せ。あなたの上着を奪う者には、下着をも拒絶するな。あなたに乞い求める者には誰でも与えよ。あなたのものを奪い取った者から、それを取り返そうとするな。そして人々があながたにしてほしいと欲するとおりに人々にも同じようにしなさい」
 並行記事はマタイ5:39以下。タイトルをつけるとすれば、ここは「悪人に抵抗するな」となる、マタイ5:39、「抵抗の放棄」である。
 「頬を打つ」29節はマタイ5:39では「相手の右の頬を手の甲で打つ」ことで、オリエントでは暴力一般のことではなく「相手に侮辱する行為」であった。しかしルカではその意味が失われて、暴力一般の意味になっている。
 マタイ伝における「裁判所に訴えて、あなたの下着(服)を取ろうとする者」は、裁判官のみが服(下着)の没収をなしえたことをふまえた表現、5:40。ここでの「下着」は服のこと、「上着」は夜間用のマントのこと。ルカではこの区別が失われて「上着を没収する判決の執行」が「泥棒して上着を盗み取る・奪う」に変わっている。
 そして戒めとして要請されているのは、「もう一方の頬も差し出せ」「下着をも拒絶するな」「奪われたものを取り返そうとするな」すなわち「抵抗の放棄」であり「逆らわずに譲って引き下がれ」との戒めである。
 言い換えると、初代のキリスト者は、社会的に見て、抵抗が成立しない状況「無防備と迫害の状況に置かれていた」ということである。
 弟子たちは「自分たちになされた悪に、悪をもって対抗・報復してはならない」と言われた。「右の頬を打たれても、このさげすみをそのままにしておきなさいというのはなぐり返したり訴訟に持ち込んだりするのでなく、イエスの証人として立っているゆえに、喜んで苦難を受けよということである」(エレミアス)。イエスローマ帝国の暴力支配を暴力をもって戦う当時の「熱心党」の立場をも否定されたのだ。パウロもすでにみたように、申命32:35を引用して「あなたがは自分で復讐してはならない。むしろ神の怒りに委ねなさい。『復讐は私の権限である。私が報復を欲する、と主は言われる」とあるからだ。悪によって打ち勝たれてはならない。むしろ善をもって惡に打ち勝ちなさい」ロマ12:19以下。
 この態度は明らかに政治的社会的分野でもインドのガンジーによって採用された(「ガンジー自伝」 )。ガンジーはイエスのこの言葉から学びとって、イギリスのインドへの植民地支配と「無抵抗・不服従の方法」で戦いつづけた。「対抗暴力はあきらめることよりはよい。しかし、非暴力は対抗暴力よりははるかによい」とガンジーは説明したという。ロシアの文豪トルストイクリミア戦争に参加した自分を反省し、イエスのこの言葉を根拠にして、日露戦争に反対したことはよく知られている。教会史では、クエーカー派が、組織的暴力・戦争に反対して、「兵役拒否」の運動を19世紀から欧米において展開し、当局にその主張を承認させ「法制化される」までになった。
 非暴力的抵抗の主張者が殉教することもあった、ガンジー、ルーサー・キングなど。他方、暴力・権力の暴力に対する対抗暴力との連鎖を破ることを、イエスは「悪に抵抗するな」で教えられた。権力の暴力支配に対する「非暴力抵抗」は、他の多くの人々との連帯をとおして有効な手段として歴史を動かしている、東欧の崩壊、ソ連邦崩壊など。独裁政権による暴力的支配に対する国民的な非暴力的抵抗は、決して無視できない政治的方法であることが歴史的に明らかになった。
 31節は、マタイ7:12と同様、「黄金律」 と呼ばれている。
 この黄金律は古代ギリシャ・ローマ、古代中国の孔子に登場する(シュタウファー「イエスの使信」)。イソクラテス(前400年ころ)「あなたがたが私に望むような仕方で他者と交流しなさい」、セネガ(前100年)「自分自身がしてほしい仕方で愛の奉仕をしなさい」など。このヘレニズムの黄金律はユダヤ教流入した。後期ユダヤ教の文献のトビト4:15「自分が嫌なことは、他の誰にもしてはならない」、ベンシラ31:15「あなたの隣人に好ましいものは、あなた自身から手放しなさい」など。アレキサンドリアのフイロン「自分自身耐えることのできないことは、行なってはならない」。
 前20年ころのラビ・ヒレルはユダヤ教に改宗しようとしたある異邦人に言ったという「おまえにとって痛みとなるようなことは他人にもしてはならない。これが律法全体である。他はみなその解説である。さあ、行って学びなさい」と。ただしヒレルの言い回しが「否定の形」であるのに対して、イエスの言い方は「肯定的形」であった(エレミアス「イエスの宣教」)。この肯定的形式でイエスは愛の実践を勧めておられる。