建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平野の説教(7) 裁くな  ルカ6:36~37

1998-37(1998/10/4)

平野の説教(7) 裁くな  ルカ6:36~37

 「慈悲深くなりなさい。あなたがたの父が慈悲深いようにである。そして(人を)裁くな。そうすればあなたがたは裁かれることがない。他者を罪に落とすな。そうすれば罪に落とされることがない。自由の身にしてやりなさい。そうすればあなたがたは自由の身にしてもらえるであろう」。
 36節はマタイ5:48「天の父が完全であられるように、完全なものとなりなさい」とあって、ここはルカ独特のもの。「神の慈悲深さ=憐れみ」については、詩27:7「主よ、私を憐れんでください」、103:13「父がその子を憐れむように、主はおのれを畏れる者を憐れみたもう」、イザヤ63:15「あなたの切なる同情と憐れみ」などの例がある。
 ルカ福音書においては、この「父の慈悲深さ」はキー・ワードになっている。特に「失われた羊の譬え」「放蕩息子の譬え」15章において。36節は、35節の展開でもあろう。「いと高きお方は恩知らずや悪人にも憐れみふかくあられる」。ここでは律法に忠実であるとか、神に敬虔であるとか、人間の側の条件を度外視した、モーセのシナイ契約を突破したところの、「主はおのれを畏れる者を憐れむ」(詩103篇)を超えた、包括的な神の憐れみが語られている。そして他方では、人間同士の「愛のエゴイズム」が批判されている。32~33節「自分を愛する者を愛したからといって、どんな反対給付が与えられようか。自分に親切にしてくれる者に親切にしたからといって、どんな反対給付が与えられようか」。イエスは神の愛・憐れみこそ律法の根本とみなされたのだ。
 37節「人を裁くな」。人を裁く時、人間は自分を神の座に置いている。帰結として「そうすれば、あなたは裁かれることがないであろう」とある。「裁かれることがない」は神的受身形で、神に裁かれることがない、という意味。また「ないであろう」との「未来形」は間近に追った終末論的な神の審判においてという意味。「神に裁かれないため」とは、最後の審判の日に、自分だけが神の赦しに達するため、ということではない。むしろ、イエスの語られる使信をもって、神の赦しが弟子たち、キリスト者らに介入してきたから、この使信を根換にして「赦せ」と戒められている。
 「自由の身にしてやる」が、キリスト者が他者に見出す「咎の赦し」を意味するのか、それとも社会的な「奴隷の解放」を言っているのかは、必ずしも明らかでない。

46~49節
 「私を主よ、主よと呼ぶが、私の語ることを行なわないのはどいうことか。私のもとに来て、私の言葉を聞いてそれを行なう人すべてが誰と似ているかを、あなたがたに示したい。その人は、(地を)掘って、深く掘り下げて岩の上に土台をすえて家を建てた人に似ている。洪水があった時も、大水がその家にぶつかってきても、それを揺り動かすこともできなかった。しっかりと建てられていたからだ。しかし(私の言葉を)聞いてそれを行なわない人は、大地に土台をすえることなしに家を建てた人に似ている。大水がぶつかるとたちまち倒れ、その家全体のこわれかたはひどかった」
 46節の「主よ、主よ」は父なる神ではなく「私・イエス」を指している。「主よ」は個人的な祈りにおける呼かけである。ここでは「イエスの言葉を聞いて行なう」と「聞いても行なわない」との対比が限目である。この対比は譬えで展開されている。
 この譬でも、文脈は「近づいている最後の審判」である。譬えでは、「洪水、大水」でこの終末時の審判が考えられている、マタイ7:25「雨が降って、大水が出て、風がふいて」は、秋の雨期の大雨と洪水をふまえたもの。教会史では、この「大水」は迷信、肉の誘惑(アウグスティヌス)、悪魔の力である情欲(シュラエルマッハー)、誤った教説(オリゲネス)などと解釈されたが、本来の終末との関連が脱落していた。
 マタイでは「岩の上に土台をすえる賢い人」と「砂の上に土台をおく愚かな人」を対比させるが(7:24以下)、ここでは家を建てるために、堅固な土台をすえるための努力をするかしないかの対比。 堅固な土台をすえる努力は「掘って、深く掘り下げて、岩の上に土台を」48節と強調されている。「岩」は地上のでなく、土に理もれた岩である。この「岩はキリストを指している」第一コリ10:4。「永遠の神のみ言葉・キリストなる岩の土台」(カルヴィン)。これに対して「大地に土台をすえることなしに」は、地の上にいきなり家を建てることで、貧しい人々の家の作り方。これを宗教改革者らは「自分の敬虔・宗教心や自分の業の上に家を建てる・信仰を形成する人」と解釈し、「キリストという土台の上に家を建てる人と対比させた。「大水」が押し寄せても決して「揺るぐことがない」は、イエスの言葉を「聞いて実行すること」が決して「倫理的原則を心にきざむことではなく」(エレミアス)その人間の土台となって存在全体を堅固にして、最後の審判にも耐えうるものとするという意味。これに対して「み言葉を聞いて行なわないこと」は、「大水がぶつかると倒れてばらばらに崩壊してしまう家」と同じように、神の審判に耐ええない。「ここでは《行なうこと・実行》は単に理論と対峙するものではなく、むしろ主に対する全体的信仰告白を要求している」シュナイダ一。
 この箇所では、「主のみ言葉を聞く」の内容が厳密に定着されている。つまり「み言葉を行なう者のみが聞いた」のである。「み言葉の実り」はルカ8:4以下の「種蒔きの譬え」で終末との関連なしに展開されている。14節以下「岩の上のもの(落ちた種)とはみ言葉を聞くとき喜んで受け入れるが、(しっかりした信仰の 根がないのでその当座は信じているが、試練の時に離れ落ちる人たちである。茨の中に落ちたもの、これはみ言葉を聞くと、しばらく信じているが、とかくするうちに人生の心配や富、快楽に押さえつけられて実を結ばない人たちである。しかし、善い地のもの、これはみ言葉を聞くと、りっばな善い心でこれをしっかり守り、忍耐をもって実を結ぶ人たちである」。8:21参照。