建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

種まきの譬  ルカ8:4~15

1998-41(1998/10/18)

種まきの譬  ルカ8:4~15

 「大勢の群衆が集まって、町から町へとイエスのもとに押し寄せてきた時、イエスは譬をとおして語られた。
 種まきが種をまくために出て行つた。彼が種をまくと、ある種は道のへりに落ちて、踏みつけられて、空の鳥がそれを食べてしまった。そしてほかの種は岩の上に落ちて、はえ育つと、枯死してしまった。水気がなったからだ。そしてほかの種はいばらの真ん中に落ちた。そしてその種と一緒にはえ育つたいばらがそれをふさいでしまった。そしてほかの種は善い地に落ち、はえ育つと、百倍もの実を結んだ。
 イエスがこれを語られると、叫ばれた、聞く耳ある者は聞けと。しかし弟子たちは、この喩はどういう意味をイエスに質問した。そこでイエスは語られた。
 神の国の奥義を認識することは、あなたがたには許されている。しかしそれ以外の者には譬で語られる。彼らは見ても見えず、聞いても理解しないからだ。しかし譬はこういう意味だ。
 種は神の言葉である。道にあったのものは、(御言葉を)聞くには聞いたが、信仰に至ることも救われることもなくするために、その後惡魔が来てその人々の心から御言葉を奪い取った人々のことだ。岩の上にあったのものは、御言葉を聞いた時御言葉を喜んで受け入れたが、彼らは根をもっていなかったので、しばらくは信じているが、試練の時に離れ落ちる人々である。いばらの中に落ちたものは、(御言葉を)聞きはしたが、人生の歩みの中で人生の心配ごと、富、快楽に(御言葉が)窒息させられて、実を熟さなくさせられる人々である。しかし善い地のものは、自分たちが聞いた御言葉をりつばな善い心でしっかり保ち、辛抱して実を結ぶ人々である」ボフオ訳。
 これはよく知られた譬えで、マルコ4:1以下、マタイ13:1以下に並行記事がある。このうちいずれの記事も、「譬の説明部分」がついている。この説明部分は「原始教会による解釈」とみなされている。イエスの譬そのものには、当時のパレスチナの農業の独特の方法も含まれていた。すなわち、畑を耕さずにいきなり大地に種をまき、その後に、種に土をかぶせる方法で、ギリシャ・ローマ世界でも、現代人にもこのやり方は不可解である。ミレーの「種まく人」を見ても、耕した土の上に種をバラバラまくのだ。「なぜ種を道端に、岩の上に、いばらの中にまくのか」は当時のパレスチナの独特の方法を忠実に反映しているわけだ、エレミアス「イエスの譬」。
 ここでは解釈部分、11節以下を中心に取り上げたい。譬では、最初の3つが惡い例、最後が善い例となっている。「種は神の言葉である」11節の「神の言葉」は直接的にはイエス神の国についての宣教である。種まく人は当然イエスご自身である。
 12節。実を結ばない3例の第一、道端の種は、始めは神がこれらの人に訪れたのに、次には悪魔が訪れ、イエスがお与えになったものを、かすめ盗んだ。悪魔の目的は「信仰に至ることも救われることもなくするため」である。
 13節。第二は「岩の上の種」の場合。マルコでは「土の多くない岩地」(4:5)。また実りに至らない理由も「土が深くないため・自分の中にしっかりした信仰の根がないため」マルコ4:5、17とある。ルカでは「水気がないため」に実りに至らなかった。マルコではイエスの宣教自体が危険にさらされていると解釈できるが、ルカでは「根をもっていない、信仰を危機にさらす試練」(マルコでは「み言葉ゆえの苦難と追害」4:17)が眼目となっている。「試練の時に離れ落ちる」すなわち絶えざる誘惑、自分の信仰が社会で拒絶されてだめになるケースである。ここ読んで思い出すのは、明治20年代までにキリスト教に接した人々、特に明治の社会主義者らことである。安部磯雄、山口弧剣、荒畑寒村、山川均など、洗礼を受けながら(山川は受けていない)キリスト教から離れた人々である。ヨハネ6:66。
 14節。第三はいばらの中の種の場合。これはみ言葉を聞いて《しばらく信んじているが》やがて人生の心配事や富や楽しみに、み言葉が窒息させられて、実を結ばない人々という。この三つの危険、エゴ的心配事(自分の所有物がおびやかされること)、富(これはルカでは救いを脅かすもの18:24「金持が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがたやすい」)、快楽(豊かな生活がないと、この楽しみはありえない、板垣退助は仲間が洗礼を受けた時も、信仰に入らなかったが、その理由はキリスト教が倫理的に厳しい、女遊びができないとか、と考えたからだという、植村正久)はいずれも神の言葉に聞き従うことと対立する。この第三の例においては、「いばらと共に神の言葉に基礎づけられた信仰が一定の期間共存している」(「み言葉はいばらと共にはえ育つが」)しかししばらく時間がたっと「人生の歩みの中で」(これはルカだけの言葉)自分の心にある心配、富、楽しみと信仰が共存できなくなって、信仰がしぼんでしまう。信仰が《キリスト者の具体的ありよう、倫理と結合していないで、信仰にうながされる行為にまで展開さず、いまだ抽象的形でしかないからだ》。
 15節は、平行記事と一番異なっている。マルコ4:20「30倍、60倍、100倍の実を結ぶ」。ここでは「(み言葉・信仰を)りつばな善い心で《しっかりと保ち、辛抱して》実を結ぶ」。ここでも、収穫までは一定期間が前提とされ(終末はすぐには訪れないのだ)、その時期この人々は継続的な努力をする、「しっかりと保つ」。「辛抱」は決して消極的な忍耐ではなく、足をふんばって立つこと、堅忍不抜、持ちこたえること。すなわち「み言葉によって持ちこたえ、み言葉をしっかり保つこと」。これはキリスト者のありようを的確に表している。