建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ゲラサ  ルカ8:26~39

1998-42(1998/10/25)

ゲラサ  ルカ8:26~39

 「そして彼らは、ガリラヤに向かい合っている、ゲラサの地に渡った。イエスが陸にあがられた時、その町出身の一人の男がイエスのもとに走ってきた。彼は悪鬼につかれ、長い間着物を着ることがなく、家ではなく、墓場に住んでいた。彼はイエスを見ると、叫び声をあげて、イエスにひれ伏して大きな声で話した、『いと高き神のみ子イエスよ、私はあなたとどんな関わりがあるというのですか。お願いですから、私を苦しめないでください』。というのは、イエスが汚れた霊にその人から出ていけと命じられていたからだ。汚れた霊は、ずっと長い間その人にとりついて、彼はしばられ、手かせ足かせで拘束されていた。彼がいましめを引きちぎると、惡鬼によって荒野にせきたてられていった。
 イエスは彼に質間された、『あなたの名は何というのか』。彼は答えた『レギオン・軍団です』。多くの悪鬼が彼の中に入り込んでいたからだ。悪鬼どもは地の底に出て行けとお命じにならないようにとイエスに嘆願した。山の上のその場所には相当数の(マルでは2千)豚の群れが草を食べていた。そして惡鬼どもはそれらの豚の群れ取りつくことを許してくださるようにイエスに嘆願し、イエスはそれをお許しになった。すると、惡鬼どもはその人から出て豚どもに取りついて、その群れは入り込み、斜面を下って湖へと突進していき、溺れて死んだ。豚飼いらはこの出来事を見ると、逃げ出して、その町や家々に報告した。
 そして人々はその出来事を見に出てきて、イエスのもとに来て、悪鬼を追い出していただいたその人が着物を着て、正気になってイエスの足元にすわっているのを知って、恐ろしくなった。その出来事を見ていた人々は、惡鬼にとりつかれた人がどのようにして救われたかを彼らに知らせた。ゲネサレ付近の群衆はイエスに自分たちのもとから去っていくように嘆願した。彼らは大いなる恐れにおののいていたからだ。そこでイエスは舟に乗って帰られた。
 惡鬼を追い出していただいたその人はイエスと同行したいと嘆願した。イエスはその嘆願をしりぞけられて彼に言われた『自分の家に帰りなさい。そして神があなたになさったことすべてを話して聞かせなさい』。すると彼は去っていって、イエスが彼になさったことすべてを町全体に宣べ伝えた」ボフッオ訳。
 並行記事は、マルコ5:1以下、マタイ8:28以下。
 イエスが湖を渡った、向こう側の「ゲラサ」(マルコ、ルカ)は「ガダラ」(マタイ)として地図にでている。それによれば、その町はガリラヤ湖の南端から南束30キロの町である。
 陸にあがったイエスの前に現われたのは、惡鬼にとり憑かれた人で、彼がその共同体から遮断された生活をしていた姿は「着物を着ることがなく、墓場に住んでいた」、生きながら死者たちの近くで生きていた、ことからわかる。墓場もそこに住む人もユダヤ人の感覚からすれば、汚れていた。サマリヤの預言者らの墓地には気のふれた人々が集められていたという、エレミアス。
 28節。惡鬼とこの病人がイエスの神的力を認めている点は、イエスへの呼かけから見て取れる、「いと高き神のみ子」との呼称のうち「いと高きおかた」は異邦人・非ユダヤ的な神への呼称である。イエスは汚れた霊にその人から出ていけと命じられたので、29節、その汚れた霊はいわばその人の中で《あばれた》、29節後半。彼はこれまでこの汚れた霊があばれないように、手枷・足枷をつけられて縛られていたが、 しかしそのいましめを引きちぎって荒野に出ていくのが常であった。
 イエスは彼に取り憑いた霊に名をたずねた、30節。「レギオン」。これはローマ帝国の「軍団」を意味し(マルコ45:20「デカポリス」)、通常6千人。猛威をふるう汚れた霊を象徴的に表現したもの「多くの惡鬼が彼に入り込んでいたから」。
 汚れた霊はイエスに嘆願した、地の底(奈落)に行くことをお命じにならないように。「地の底・奈落」は神に敵対する悪魔が支配する場所、地下の世界、諸霊が捕われ閉じこめられた場所と考えられていた。
 「相当数の豚の放牧」32節前半「豚飼い」34節は、この地が非ユダヤ的であることを示す。豚はユダヤ教では汚れた動物であったから、レビ15章。また当時ローマ人はユダヤ人がまずもって敵対していた異邦人の力の当の相手であって、ローマ人は「豚」と呼ばれていた。惡鬼はこれらの豚の群れ(2千?)に取りつく(乗り移る)ことをイエスに願って許された、32節。この豚の群れに取りついた惡鬼どもは、坂をかけおりて、湖に沈んで死んだ。結局惡鬼どもは滅びたのだ。これはすざましい光景であるが、イエスの悪霊追放によって神の国の到来したことを目に見える形で示したものである、11:20。
 出来事のもう一つの帰結は、惡鬼に憑かれていた人の癒しの実現である、35節。彼は正気をとりもどし、きちんと着物を着ていた。「着物を着る」はその人の精神の次元、アイデティティー、正気のしるし。彼が「イエスの足元に座っていた」静かな姿は、注目すべきで、彼がイエスの弟子になったことを示している。             
 36節の「悪鬼に憑かれた者がどのようにして《救われた》かを人々に知らせた」。ここの「救い」は自分にとり憑いた悪鬼の縄縛からの解放、病気、悪霊つきからの救済を意味しているが、《その救いがいま現実のものとなっている》点をルカは強調している。癒された病人はイエスとの同道を願うが、イエスは彼に新しい課題を与えられた、「家に帰りなさい」38節は救いの実現の象徴であるが、社会復帰以上のことを意味する。彼は惡霊を追放していただいたばかりでなく、「《神》が自分にどんなことをしてくださったかのすべて」を人々に語り伝える使命を与えられ、イエスの弟子として《イエス》の悪霊追放の業を宣べ伝えたからだ。彼にとっては「神による癒しは、イエスによる癒し」であったからだ。彼はイエスに病気を癒されて後、イエスに同道を願う数少ない一人であったのだ。