建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ヨハネの誕生  ルカ1:5~25、57~66

1998-48(1998/12/6)

ヨハネの誕生  ルカ1:5~25、57~66

1:5~25 
 「ユダヤの王、ヘロデの時期に、アビア組の出身でザカリアというある祭司がいた。そして彼にはアロン家出身の子孫で名をエリザベツという妻がいた。二人とも神の前に正しく、倦むことなく主のあらゆる戒めと定めとに歩んでいた。そして二人には子供がいなかった。エリザベツが子を産めなかったからだ。しかも彼らはかなり高齢であった。
 ザカリアが祭司職の習慣に従ってくじに当ったので、主の宮に入って香の供え物を捧げることになった。香を捧げている間、民の大勢が外で祈っていた。その時、一人の主のみ使いが彼に現れ、香の祭壇の右手に立っていた。ザカリヤはそれを見て、動転して、その者に恐れを感じた。そこでみ使いは彼に言った
 『ザカリアよ、恐れるな。あなたの祈りは聞かれ、あなたの妻エリザベツは男の子を産むであろう。あなたはその子の名をヨハネと名づけるであろう。その子はあなたに喜びと歓喜となるであろう。多くの人はその子の誕生を喜ぶであろうからだ。彼は主の前で大いなる者となり、ぶどう酒と酒を飲まず、母の胎ですでに聖霊に満たされるであろう。彼は多くのイスラエルの子らを彼らの神、主に立ち返えらせるであろう。彼はエリアの霊と力によって主の前に先駆ける者となり、父の心を子の心へと向け(マラキ4:6)、不服従の者を義人の見識へと立ち返らせ、準備のできた民を主に用意するであろう。ザカリアはみ使いに言った『それ(子の誕生)をどのように知ることができますか。私は老人で、妻も高齢ですから』。み使いは答えて言った『私は神の前に立つガブリエルである。そしてあなたにこの喜びの使信をもたらすために派遣されたのだ。見よ、あなたはおしとなり、このことが実現するまでは口がきけなくなるだろう。時がくれば成就する私の言葉をあなたが信じなかったからだ』。
 民はザカリアを待つていたが、彼があまりに長く宮の中にとどまっていたのを不思議に思った。彼が出てきた時、口が聞けなかったので、彼が宮で幻を見たことを知つた。彼は人々に身振りで示し、おしのままであった。そして彼の務め日が終った時、家に帰った。数日後、妻エリザベツはみごもって5ヵ月間引きこもった。そして言った、主は人々の中で私の恥をそそいで、私に今このようにしてくだされた。

1:57~66。
 エリザベツに出産の時が満ち、男の子を産んだ。近所の人と親族は、主がエリザベツに大いにその憐れみを示されたと聞いて、彼女と共に喜んだ。(誕生から)8日目に人々が子に割礼をするためにやって来た時、その子に父の名に従って、ザカリアと名づけた。すると母(エリザベツ)が答えて言った『いいえ、むしろヨハネと名づけなければなりません。彼らは母に言った『あなたの親族にはその名をつけられた者は誰もいません』。彼らは父にどのような名をつけたいかを身振りで示した。父は書き板を求めて『彼の名はヨハネ』と書いた。そして皆が不思議に思った。同時に彼の口と舌が動き、神を賛美した。そして近所の人々全員に恐れがのぞんだ。この出来事すべてがユダヤの山地全体で語られた。それを聞いた人々は皆、そのことを自分の胸にとめて言った『この子はいったい何になるのだろう』。主のみ手がその子と共にあったからだ」。
 洗礼者ヨハネの誕生の記事はむろんルカ伝だけのもの。なぜこのように長いヨハネ誕生記事が、イエス誕生記事の前に置かれとそれと「並行して」しるされているかは不思議である。その理由はいくつかあげられるであろう。
 第一に、ユダヤ教的・旧約聖書的にみて「ただしい者への神による顧み」というポイントがある(マリアとの並行1:48)、「私の恥をそそいでくだった」1:25、「主はエリザベツにその憐れみを示された」57。ザカリアとエリザベツはユダヤ教では名門でザカリアはエルサレム神殿に仕える上流の祭司。24組からなる祭司職のうちアビア組に属し年に2回、  1週間神殿で務めを果していた。妻エリザベツも祭司の家系アロンの出身で、二人とも「主の戒めと定めを守る」敬虔な者であった。しかし二人には子供がいなかった。エリザベツが不妊症であったて、しかも二人は高齢であって子が生まれる可能性はなかった。不妊症の女性が神の顧みによって子を産むと話はアブラハムの妻サラ、サムソンの母ハンナの場合がある。二人の「祈りを聞いて、恥をそそぐ」出来事が起きる。
 第二に、これがみ使いによるヨハネ誕生のお告げである(マリアとの並行、イエス誕生のお告げ、1:26以下)。このお告げはみ使いの登場によってなされる(マリアとの並行、1:26、み使いも同じガブリエル)。このお告げにおいて、ヨハネの本質が告げられる。(1)ぶどう酒や酒を飲まない(2)イスラエルの子孫を神に立ち返えらせる、「罪の赦しによる救いを民に知らせる」1:77(3)主・イエスの先駆けとなる。これがいわば、ヨハネ誕生記事がしるされた理由である。イエス・メシアの誕生という救いの出来事は、決して単独で起きるものではなく、その「先駆けとなる存在」の奇跡的誕生をともなって、メシア誕生の「道備えをする」(3:4)のだ。
 第三に、ザカリアの問いかけ・疑問。み使いのお告げをすんなりと受けとめられずに「証拠を求めた」これがザカリアの問い・疑いである、1:18。高齢の夫婦、しかも従来不妊症の妻が子を産むことが信じられない。この問いはみ使いに「時至って成就するみ使いの言葉を信じなかった・疑問を抱いた」とみなされて、その罰として「口がきけなくなった」。しかしこのことも実は「彼が幻に出会った証拠」でもあった、22節。
 彼の問いは、マリアとの並行がある、1:34。そしてイエス誕生の奇跡を告げられたマリアも疑問を提起する「どうしてそんなことがありえましょう。私は全く男性を知りませんのに」1:34。これに対する反論、奇跡実現の証拠としてみ使いがあげたのが、エリザベツの妊娠であった、36節「見よ、あなたの親族エリザベツも、あの老年で男の子をみごもっていて、6ヵ月になる。彼女は不妊と言われていたのに」。すなわち、高齢で不妊症のエリザベツの懐妊は、み使いの預言がマリアの上に成就することのしるし・証拠とされている。むろん人間的にみて「不可能に近い」出来事(老齢で不妊の女の妊娠)と人間的にみて「絶対不可能な」出来事(聖霊による妊娠)との相違点はうめられないが。
 第四に、メシアの先駆け。バビロン捕囚からの解放をつげたのは、預言者第二イザヤであった。これに対してメシアの誕生と宣教活動の準備のために、特別の使者、先駆けが派遺された、それが洗礼者ヨハネである。マラキ3:1「見よ、私はわが使者を遣わす。彼は私の前に道をそなえる」4:5「見よ、大いなる恐るべき日が来る前に、私は預言者エリアをあなたがたに遣わす」。ルカ1章ではヨハネを「主の先駆けをする」1:16、76と言っている。ヨハネの存在と活動とは決してイエスの活動の時代史や前史ではなく「最初から神の救済史の脚光をあびている。ヨハネイエス・キリストの福音の一部をなしている」(ボルンカム「ナザレのイエス」)。この点は初代の教会がヨハネから(イエスの授洗を含めて)《洗礼を受け継いだ》ことからも明らかだ。
 ヨハネがいかなる先駆けであったかは、マタイ3:1以下『悔い改めよ。天国は近づいた』。この人は預言者イザヤによってこう言われた人である。《荒野に叫ぶ者の声がひびく、主の道を用意し、その道筋をまっすぐにせよ》」。「彼はイスラエルの子孫を主に立ち返らせる」(ルカ1:16)「彼は罪を赦されるための悔い改めの洗礼を説いた」3:3から明らかである。ただヨハネの説いた神の国は、神の怒りの審判の近き到来への悔い改めを説いたのに対して、イエス神の国の到来の使信は、神の審判でなく、神の恵みの到来を告げるものであった(ケーゼマンら)。