建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

羊飼いへの告知  ルカ2:8~20

1998-50(1998/12/20)

羊飼いへの告知  ルカ2:8~20

 「そして羊飼いたちがこの地方で夜間に野外にいて、羊の群れの番をしていた。すると一人の主のみ使いが彼らに現れ、また主の栄光が彼らの周囲を照らした。そこで彼らは大いに恐れた。するとみ使いは彼らに言った『恐れてはならない。見よ、私はあなたがたに喜びの使信、民全体のための大きな喜びを告げるからだ。今日、ダビデの町にあなたがたに救済者がお生まれになったからだ。このお方はメシアなる主である。あなたがたはみどり児がおむつ(塚本訳では「産着」)にくるまれて、飼い葉桶に寝ているのを見出すであろう。それがあなたがたへのしるしである』。すると同時に、み使いと共に、大勢の天の軍勢が現れて、神を讚美して言った『高きところでは神に栄光あれ、地には御心にかなう人々に平安あれ』。そしてみ使いが彼らから天に去っていった時、羊飼いたちは互いに語りあった。『さあ私たちもべツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこと、そこで起こったことを見てこようではないか』。彼らは急いで行ってマリアとヨセフと、飼い葉桶に寝ているみどり児を見つけ出した。彼らはそれを見た時、この子について(み使いに)語られたていた言葉を人々に知らせた。これを聞いたすべての人々は、羊飼いが話してくれたことを不思議に思った。しかしマリアはこれらすべての言葉を胸にひめて、心のうちで思いめぐらしていた。羊飼いたちは見たり聞いたりしたことすべてが、自分たちに語られたとうりであったので、神を崇め讚美しながら帰っていった」。
 羊飼い、8節以下。羊飼いが夜間にずっと羊の番をするのは、春から秋の期間とされ(春の過越の祭から11月末までころ)、冬の時期は羊は家畜小屋に入れられて寒さをしのいだという、ジュールマンの注解。
 「なぜ羊飼いにみ使いの告知があったか」は決して自明ではない。《ユダヤ教では》羊飼いは特に敬虔でも、貧困でもなく、彼らは裁判官にも証人なれず、人々は彼らから何も買わなかった、彼らはいつも盗人とみなされていたからだ。「この世で羊飼いの仕事ほど軽蔑される仕事はない」エレミアス、ディベリウス。羊飼いが特に軽蔑された人々であったから逆説的にメシア誕生の告知を受けたとか、あるいは彼らが特に貧しい階層の代表者であったからこの告知を受けたという見解も、妥当性をもたない。
 他方《旧約聖書では》イスラエルは自らを羊飼いの民とみなしていた(申命26:5以下「放浪のアラム人」)。神も羊飼いになぞらえられ(詩23篇「主はわが牧者」)、メシアも羊飼いとして表現された、エゼキエル34:23「私は彼らの上に一人の牧者・羊飼いを立てる。…わが僕ダビデである。彼は彼らの牧者となる」。詩78:70~71「神はその僕ダビデを選んで、イスラエルの羊飼い(牧者)とされた」
 羊飼いへの告知の背景には、このようなメシア表現が関連している。この降誕記事では「羊飼い」は軽蔑された人々ではなく、伝統的古典的な職業を代表として登場している。それはこの記事が《ユダヤ教の外部における羊飼いについての見解に由来するからであろう》、ディベリウス「処女降誕と飼い葉桶のみどり児」。
 み使いの出現は、ルカ1~2章では、ザカリア、マリアへの出現に引きつづいて《三度日》であるが、このみ使い「主のみ使い」はガブリエル(1:36)であろう。み使いの使信がポイントであるが、これには4つの要素からなる、イスラエルに対する大いなる喜び、救い主の誕生、しるし、新しいみ国への讃美。
 夜間、野原におけるみ使いの出現とともに「主の栄光が彼らのまわりを照らした」(9節)はイザヤ9:2のメシア預言の箇所と同様に、ここでも夜の闇と光の対照がきわだっている。
 み使いの使信「恐れるな」は神的顕現に対する人の恐れの除去(1:13、29)。「見よ、私はあなたがたに大いなる喜びを告げる」(10節)の「大いなる喜び」は《救いの時到来のしるし》であり(24:52)、メシア的喜びであり、洗礼者の誕生告知にある「多くの人々の喜び」(1:14)以上のもの「すべての民に対する喜び」である。
 「救い主・救済者」という表現は、当時ではヘレニズムの支配者を表す理念に大きな役割を果していた。皇帝アウグストは戦争を終らせる「救い主」と呼ばれた。70人訳の、士師3:15では神が立てられたイスラエルの士師も「救済者」もこう呼ばれた、また詩25:5では神ご自身を「救い主」と呼んだ。また「主なるキリスト=グリストス・キュリウー」という表現は、哀歌4:20「ヤハウエに膏注がれた者」、後期ユダヤ教のソロモンの詩篇18:6などでも出てくる。そこでの「主」は「ヤハウエ」を指しているが、ここでは、ヘレニズムのユダヤキリスト者に由来するものとして「イエスの尊称」とされている、ディベリウス。ルカは皇帝も救い主と呼ばれていたことを意識して、イエスの尊称を反皇帝的なものとして述べたのであろう、ボフォの注解。
 11節の「ダビデの町」は、ミカ5:2=マタイ2:6「おまえ、ユダの地なるべツレツヘムよ、おまえはユダの町々の中で最も劣ったものではない。おまえの中から一人の支配者が出て、わが民イスラエルを牧するからだ」と関連して、ベツレへの町を意味する。つまりメシアがべツレヘムに生まれるというのは、ミカの預言の成就として述べられている、この預言の成就を示すのが「今日・今夜」である。このメシアは《ダビデ的、羊飼い的なメシア》である。
 「しるし」11節。「おむつ・産着にくるまれて、飼い葉桶に寝ている」は「牧歌的な動機」(特に飼い葉桶、羊飼い)とみなされ、また「飼い葉桶」は羊を飼う羊飼いの家が想定されるが(マリアらはその羊飼いの家に宿を見出した)、しかしその家は貧しく、新生児を入れるきちんとしたベッドがなかったので飼い葉に新生児を入れる必要があったとの推定は当っていない。というのは「飼い葉桶」は貧しさの象徴ではなく、神によって与えられた「しるし」メシアの「目印」だからである。
 み使いの讃歌、14節「いと高きところでは神に栄光あれ、地には御心にかなう人に平安あれ」は解釈が少し難しい。これは神に栄光が帰せられるようにとの願望一般を告げているのではなく、むしろ高きところでの新たな神の栄光の告知《メシア的な歓呼》すなわち「救い主の誕生」を告げている。
 「平安」(翻訳は皇帝のイメージがある「平和」よりこれのほうがよい)という表現は厄介で、先のアウグスト皇帝が終らせる戦争や闘争についてではなく、神が御心にかなう人々の間で実現されるものを指している。この「平安・エイレーネー」はへブル語のシャロームに該当する用語で「平和、平安」ばかりでなく、「救い」という意味もある。「御心にかなう人々」は「善意をもつ人間」ではなく「神に選ばれた人々」すなわちユダヤ教では「敬虔な」ユダヤ人、キリスト教ではキリスト者を意味する。かくてディベリウスはこの讃歌をこう解釈する「天においいては栄光神にあり、地にはその民に救いが与えられる」。ポイントはメシア到来とともにもたらされる「平和」にあるのでなく、あくまでメシアがもたらす「救い」にあるといえる。
 15~16節。羊飼いらは野から離れ、ベツレヘムの町に急ぐ、讃美歌111「アデステ・フィデレス」。先の「メシア的しるし」がどのように働きかけたかは述べられていないが、実際羊飼いらは「マリア、ヨセフ、飼い葉桶に寝ているみどり児を見つけ出した」16節。メシアなるみどり児を見つけ出した羊飼いらは、今度はこのメシア誕生の出来事をまわりの人に伝える「告知者」となる。17節「彼らはそれを見ると、このみどり児についてみ使いに告げられた言葉を人々に《伝えた》」。17節の「み使いに告げられた《言葉》」は「メシア誕生についての神的説明」を、18節の羊飼いが《伝えた》は、通常の語る行為でなく、自分で関与し自分で確証した出来事を伝える行為、それを理解し正しく説明するという行動「説教」であったといえる。それを聞いた人々が「不思議に思った」は人間の理解を超えたものに出会った時の反応。1:63、2:33など。
 そして羊飼いらはみ使いの告知「不思議さ」を実証できたこと、かつこの 「不思議さ」をつきぬけてそこに神の行為を体験できた、神の恵みが人間の間ではっきりと認識されること、これが羊飼いに信仰を引き起こし、また彼らを神讚美に向わせた。