建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ベルゼブル論争  ルカ11:14~20

1999-2(1999/1/10)

ベルゼブル論争  ルカ11:14~20

 「イエスは悪鬼を追い出しておられたが、それはおし(唖)であった。その惡鬼が出ていくと、そのおしの人は話し始めた。そこで群衆は驚きの念にとらわれた。彼らの数人はこう言った『あの人は悪鬼の頭であるべルゼブルによって悪鬼を追い出している』と。またある者たちはイエスを試そうと天からの徴を要求した。イエスは彼らの思いを知つておられて、彼らに言われた『いかなる国でも、それ自体で割れているなら、荒廃してしまうが、同じようにあるものが別のものの上に倒れてくるよな家は決してたちゆかない。サタンが内部で割れているならば、どうして《その国》が立ちゆこうか。しかしあなたがたは、私がべルゼブルをもって悪鬼を追い出していると言っている。私がベルゼブルをもって悪鬼を追い出しているなら、あなたがたの子らは誰によってそれを追い出しているのか。それゆえあなたがたの子ら自身があなたがたの判定者になるであろう。《もし私が神の指によって悪鬼を追い出しているとすれば、神の国はあなたがたのもとに来たのだ》」

 並行記事は、マタイ12:22以下、マルコ3:20以下。
 「おし・聾唖」の人は、「おしの悪鬼」に取りつかれて「おし」となると考えられていた。だから「おしの癒し」はその悪鬼をその人から追放することで実現した。おしの癒しの実現は、おしの人が「話し始める」ことで証明された、14節。イエスのなさるこの癒し奇跡に「群衆は驚きの念をもった」。マタイではこの驚きは「もしかしたらこの人はダビデの子ではなかろうか」と表現されている。しかしイエスの癒しに疑間をもつ者たちもいた、「彼らの数人」15節。マタイではイエスの悪霊追放に疑問を出すのは「パリサイ人」(マタイ12:24)である。
 「あの人はべルゼブルによって悪鬼を追い出している」15節。この非難の背景には、イエスの反対者といえども、イエスの癒しの行為自体は否定できなかったことを示している。「べルゼブル」はここにあるように「悪鬼の頭」通常はサタン・悪魔と呼ばれる。
 「べルゼベル」は本来は「家の主人」の意味で、多くの兵隊・悪鬼を使い、命令を発して人間らに取りつかせて悪いこと、病気を起こしたりする。ここでも「王国、家」の比喩が用いられるのは、そのためであろう。「ベルゼブルによる悪鬼の追放」という非難は、イエスの癒しに力は認めざるをえないので、癒しのその力を「魔法によるもの」と非難をあびせたのだ。
 イエスは警で反論される、内部で割れているような国も家も存立しえない。
 19節のイエスの反論「あなたがたの《子ら・弟子たち》は誰によって悪鬼を追い出しているのか」は、《ユダヤ教における悪霊追放》に言及したものとして注目される。ユダヤ教は神の名による悪霊追放を承認していた。ラビ・ベン・ザッカイ(後80年ころ死)ももこれを認めていたという。ユダヤ教の人々からのイエスの悪霊追放への非難(マタイではパリサイ人からの、マルコでは律法学者からの)は、《ユダヤ教による悪霊追放》にも向けられるのか、ユダヤ教の悪霊追放のほうは認めてもイエスのそれは誹謗するのか、とイエスは反論されたのだ。9:49~50参照。したがってユダヤ教の悪霊追放とイエスによるそれとを判定すべき人としては、「あなたがたの子ら・弟子たち」になってもらえばよい、とイエスは言われる、19節後半。判定は将来に委ねられたのだ。
 中心ポイントは20節である「もし私が《神の指をもって》悪鬼を追放しているとすれば、神の国はあなたがたのもとに来たのだ」。ルカの表現「神の指をもって」はマタイの「神の霊をもって」より元来のもの(Q)と言われている。出エジ31:18、申命9:10などに神が「その指をもって」十戒を石の板に書いたとある。したがって「神の指によって」は「神の力」ではなく「神の活動性」を示している。ここでは,イエスの癒し・悪霊追放の行動の中で《神が働いておられること》を示している。
 「神の国」の「国・バシレイア」は「王的支配」の意味。神の王的支配は、「サタンの王国」(18節)支配に対する戦いと勝利をもって到来する。それを示しているのが、イエスの悪霊追放である。またこの点がユダヤ教の悪霊追放とイエスのそれとの決定的相違である。神の国の到来は、イエスの宣教をもって、また罪人との食卓の交わりをもって、到来したばかりではない、イエスの悪霊追放によっても到来するのだ。イエスが悪霊を追放するたびに、サタンの支配は人々の目の前で無に帰せられる。そればかりではない。弟子の悪霊追放によってもサタン滅亡は始まっている。「弟子たちによる悪霊追放」の報告を聞いて、イエスは言われた「サタンが稲妻のように天から落ちるのを私は見た」(ルカ10:18)。サタンの天からの墜落(という幻視)、これこそ「天からのしるし」である(16節)。しかし当時のユダヤ教の文献には、現在サタンが滅亡し始めたといいうことはしるされていない。イエスの悪霊追放のみが、神の国・神の王的支配の到来をつげるのだ。それによってサタンが天から墜落し、終りの時、救いの時が到来したのだ。