建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

愚かな金持の譬  ルカ12:13~21

1999-3(1999/1/17)

愚かな金持の譬  ルカ12:13~21

 「群衆の中の一人がイエスに話しかけた『先生、私の兄に、私にも遺産を分けてくれるように言ってください』。イエスはその人に言われた『人よ、誰が私をあなたがたの裁判官また遣産分配人に定めたのだ』。そして群衆に向って言われた『すべての貪欲に注意し用心しなさい。物があり余るほどの暮らしをしている人にとっても、その生命はその人の財産に左右されるものではないのだから』。そこで一つの醫を話された、(16節以下)
 『ある金持の畑が豊作であった。彼はひそかに考えて、言った《どうしようか。私には収穫物をしまう場所がない。こうしよう。倉を取りこわして、もっと大きいのを建てて、そこに穀物全部と財産とをしまおう。そして私の心に向って言おう、心よ、おまえには長年分の多くの財産がある。安心しろ、食べて飲んで、楽しみなさい》。しかし神は彼に言われた《愚か者よ、(神は)今夜おまえの生命を要求するであろう。おまえが準備したものは誰のものになるのか》。自分自身のために貯えるが、神のところでは富んでいない者(の定め)はこうしたものだ』」。
 この短い譬の内容を正確に把握するのは、やさしくない。
 イエスは兄に遺産配分をしてくれるように求めた弟の依頼を拒絶された。そして物質的な豊かさを追い求める群衆に警告された、「物質的な豊かさを追い求めるな、貪欲になるな」。その人の人生にとって財産とは一体何ものなのだ、「物質的にどんな豊かな生活をしていても、人間の生命は財産に左右されるものではない」(15節)、これは賢者の悟りの一つではなく、むしろ「終末的な認識」である。
 終末的認識というのは、自分のこれまでの暮らしがある種の終りに直面した時に忽然として明らかになる人生観である。このような認識を経験する人は今日では、難病にとりつかれた患者とか、追放にあった人々などである。これまではそれなりの暮らしと人生観・価値観をもって生きてきたが、それがある危機によってすべてご破算になった人々が体験する 人生観といえるものである。
 ここの譬で取り上げられている金持は、ガリヤカなどの大地主であろう。「倉」は穀物を入れる納屋ではなく、穀物を収納する貯蔵しておく、しっかりした倉庫。
 この金持の「愚かさ」(20節)は、収穫した穀物と財産を倉に収めたので「自分がこれから長年生き続けられる保障が獲得できた」すなわち「地上に自分自身のための貯えを確保したことで、安心だ」と考えたことである。言い換えると、神を実質的に度外視し、「他者の苦境を見過ごし、神への恐れを忘れていること」である(ボフオの注解)。しかし彼の現在と将来の運命を左右するのは、財産ではなく、神である、20節後半。
 ここは訳が難しい。塚本訳は「今夜おまえの魂は取り上げられるのだ」。直訳では「今夜彼らはあなたから、あなたの生命を要求するであろう」。「彼らが要求する」という三人称複数形は民間の考え「死の天使ら」をふまえたもの。他方ここは「神」を指していると解釈されている。「神があなたから要求する生命」とは、生命は神が彼に「貸し与えたもの」もので、その「返還を要求される」という意味。神にはこの権限があるのだが、金持はこのことを全く「忘れていた」これも彼の「愚かさ」である。
 しかし「あたかもイエスが死が突如として人間に襲いかかるのだ、という古代人の知恵を聴衆に語っておられる、かのように理解してはならない」(エレミアス「イエスのたとえ」)。そしてイエスがこの譬で示しておられるのは「差し追った危険として《思いがけない個人の死ではなく、切迫した終末的破局と切迫した審判》にイエスは目を向けておられることである」とエレミアスは解釈する。
 しかしながら、この箇所のポイントが「切迫した終末であるのか、個人の死であるか」は論争されている。人間の現在と将来を左右するのは「財産ではなく、神である」こと、人間は自分の死を自覚して人生を築くべきであること。これは「メメント・モリ」と一脈つうじる考えであるが(「死を忘れるな」自分はやがて死ぬべき存在である)、このスローガンは従来どこかで神を度外視しているが、ここでの眼目は「天に宝を積むこと」(マタイ6:20)、「神のところで(神に向って)富むこと」(ルカ12:21)、すなわち死後の生命を考えそれに思いをはせること、である。「神に向って富む」ということは直接的には、神に対して分配されたお金、言い換えると、愛の行為全体(神への愛と隣人愛、10:27)を意味する。
 「人間の現在と将来を左右するのは財産である」と考えている人は多い。しかしそうでないことを考え方としてではなく、体験として明らかになるのは、先にふれた「終末的な認識」をとおしてである。その意味では、この譬のポイントが「終末ではなく、個人の死である」との解釈もやはり一面的だと思う。終末的認識は「人間の将来を左右するのは財産ではない」ことだけは明らかにしてくれる。しかし真の意味で「神に向って富む」ことを示しているのは、イエスの言葉である。