建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

善い僕と悪い僕の警(1) ルカ12:35~40

1999-4(1999/1/24)

善い僕と悪い僕の警(1) ルカ12:35~40

 「あなたがたはすそ(裾)をひきからげ(帯をしめて)、明かりをともしていなさい。あなたがたは、主人が結婚の祝いからもどって、来て戸をたたいた時、すぐにも開けられるように、主人を待っている人々のようでありなさい。主人が来た際に、起きているのを見られる僕たちはなんと幸いであろう。アーメン、私はあなたがたに言う『主人は帯をしめて、僕たちを食卓につかせ給仕するために歩き回るであろう。そして彼が第二や第三の夜回りのところにやって来た時に、同じように起きているのを見られるとしたら、その僕たちはなんと幸せであろう。あなたがたは知つているように、家の主人は何時に泥棒が来るかを知つていれば、家に泥棒を侵入させはしないであろう。あなたがたも用意していなさい。というのは人の子はあなたがたが考えてもいない時に来るからである』。

 並行記事はマタイ24:42~51。
 ここは「キリスト再臨の遅延」をテーマとしている。譬の対象とされているのは「私たち」教会の指導者である。今回は40節まで。
 35節、「裾・すそをひきからげる」は、上着を上につまみ上げる習慣、旅や仕事をしやすくするためのもので、それらへの用意をすること。これは夜間に急いでエジプトからの出エジプトを思いおこさせるものだが、同時に「灯をともして」とあるから、過越の祭のシンボルをも暗示している。主人・メシアの到来は夜間に想定されている。主人の不在は印象的である。
 36節、「僕たち」には決まった労働時間はなく、いつもいつも用意にしておく義務があった。主人は相当離れたところにいるが、その帰りを待って外で夜を過ごす必要はなかった。主人は友人か親族の結婚式に出かけた。そしてもどって来て戸をたたく。
 初代の教会はイエスの言葉を別な意味で解釈した。主人は「主」、「人の子」はメシアのこと。主人の旅立ちを「復活」と「復活の主の不在」と、僕たちの待ちわびることは「信仰者の待望」を、思いがけない主人の帰還を「主の来臨」を暗示するものとみなした。
 初代の教会は、キリストの復活後50~60年を経過して重大な危機に直面していた。それは「主の来臨・再臨の遅れ」という問題、来臨を待望する忍耐を欠き、絶望に陥る危機であった。主の復活と主の来臨の間の時期、キリスト者は何をすべきか、この問に答えたのがこの譬である。緊急な事柄は「仕事」である。信仰者は主の来臨を希望に満ちて待望する者として、出エジプトのシンボルにしたがって、奴隷の家から去って、今後は父の家で生きていくのである。
 「目をさましている」はキーワード。「長い期間継続される行為」。「幸いだ」は、僕たちが誉められるばかりでなく、その適切な態度を受け入れられ、主人との正しい関連にあること。
 37後半は、神の国での祝宴(14:15)を描いているが、僕たちを食卓でもてなすのは主ご自身である、22:27。教会の指導者は主権者としてではなく、仕える者、給仕する者としての「キリストの実例」にしたがうべきあるという。主人は「すそをひきからげ、食卓につかせ、給仕する」。
 38節の「夜回り」は、門番の譬、第二、第三の真夜中と夜明けの門番。眼目はここでも主の来臨と目をさましていてそこに居合わせること、マルコ13:35。
 むろん人が目をさましていることは神の助けなしには確実ではないし(ゲッセマネの弟子たち)、戸を開ける用意をすることも、また召使となって仕えることも、あくまでも人に仕えたキリストをとおして実現する。
 39節、ここでは主人の到来・期間の時刻が取り上げられている。弟子たちは泥棒がいつ「何時に押し入ってくるか知らないということ」を「知つている」。「目をさましている」は「その人が《いつ来るかを知らない》」ということを、こちらははっきり知つている、意識してことを前提としている。「いつくるか知つている」場合には、到着直前まで眠ったり、休んでいることができる。39節の「泥棒」の侵入の例は「何時に押し入られるかわからない」例として示されている。眼目はやはり「思いがけない時、時刻に到来する」点にある。
 40節、そして「盗人の侵入の時」は「主の日の到来」と結合される、Ⅰテサ5:2、Ⅱべテロ3:10、黙示3:3「私は盗人のように来る」=16:15。
 「待ちわびる」(35節)と「目をさましている」(36、37節)はここでは「用意している」と表現されている。
 「人の子(主の来臨)が思いがげない時に来る」は、主の来臨・パルージアの遅れに対する一つの解決法が、主の来臨は《思いがけない時に》ある、であった。ここからいくつかの勧告がなされた、「すそをひきからげよ」「灯をともしておれ」「目をさましていなさい」。逆に、来臨の遅れを疑わず、不安にもならず、キリストが確実に来臨されて、全権と栄光をもって神の国を打ち建てられ、この世の社会的政治的秩序を新たにつくられ、全被造物を平和的に救うことを信じるべきであると。
 キリストの来臨がいつのことかがわからないということは、あらゆる時が、無為の時ではなく、仕事の時、神と隣人を愛する機会となるということである。