建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

善い僕と悪い僕の警(2)  ルカ12:41~48

1999-5(1999/1/30)

善い僕と悪い僕の警(2)  ルカ12:41~48

 「するとべテロが言った『主よ、この譬を私たちにに対してお語りになったのですか、それとも全員に対してですか』。主は言われた『適切な時間に、生活必需品を分け与えるために、主人が召使たちの上に立てる《管理人》の内で、どのような者が忠実で賢いのであろうか。その《主人が来た時に》そのように行なっているのを見られる僕はなんと幸いなるかな』。まことに私はあなたがたに言う『主人はその者に全財産を委ねるであろう。しかし、かの僕が心の中で<私の主人は来るのが遅い、来ないのではないか>と言って、僕たちや下女たちを殴ったり、飲み食いして酒に酔い始めていると、かの僕の主人は《予期しない日、思いもよらない時刻にやって来て》、その者を八つ裂きにし、不信仰者と同じ運命にあわせるせるであろう。主人の気持を知りつつ、用意せず、主人の気持に従って行動しなかった僕はひどく打たれるであろう。しかし主人の気持も知らず、行動もしない者は少ししか打たれない。多くを委ねられた者には多くのことが請求され、多く信頼された者にはますます多く要求される』」。
 並行記事マタイ24:45~51。
 ここで「召使の上に立てる管理人」が誰をさしているかは難しい。元来はユダヤ教の宗教的な管理人、すなわち「律法学者」を指していた、そして彼らをイエスは「悪い僕」とみなして批判されたとの解釈がある(エレミアス)。この「管理人」は決して単純に「僕・召使」ではなく、主人の信任を受けている。彼の務めは「適切な時に、召使たちに食物・生活に欠くことのできないものを与える」ことである。食事、料理を出すこと、また医療的な奉仕(9:11「治療・癒し」)や施薬。さらに礼拝において(「適切な時間に」)他者を「霊的に保ち、養うこと」。「誠実な」は「神を信頼する」ニュアンス。たゆまず仕事をする。「賢い」は宗教的な知恵のしるしで、実行力のあること、能動的活動性。信仰者らへの奉仕で神の御心を満たすこと。初代の教会は彼をキリストの復活と高挙という不在の時期(42節の「管理人の設定」は主の旅立ちを前提としている)教会員の世話を委ねられた《教団・教会指導者》と解釈した。
 43節における「主人が来た時」は明らかに「キリストの再臨」を言っている。「行動しているのを見られる」とは、ただ思っているだけではなく、実際《委託されたことを行動している点》がポイント。したがって困難な状況でも《踏み止まり、持続される行動》が眼日となっている。
 45節。彼の「忠実さと賢さ」には、主の来臨・再臨の約東に対する確信を堅持して、それにもとずく仕事をすることが含まれている。40、46節「人の子は思いがけない時に来る」との確信である。
 「主人の来るのが遅い、来ないのではないか」は《主の来臨の遅れという当時の教会の状況をはっきり表現している》。しかも「主の来臨の遅れという問題」を「自分の心の中で言う・考える」こと、すなわち《人の子の来臨を疑う行為》自体は、「惡い僕」の行為「悪い、不信仰な行為」とみなされている点は重要である。しかも「悪い僕」は、その疑いに促されて、きちんと召使らの「世話をしないで、委ねられた力を乱用する」(44節「彼らをなぐる」)「飲み食いして酒に酔う」すなわち務めを忘れて無為に、刹那的な暮らしをすること。
 他方「善い僕」のほうは、主の来臨の遅れなどを《考えないで》「《そのように》行動する」つまり「主人の言いつけどうりに行動している」(43節)「定期的に召使たちを養い世話をしている」(42節)。
 43節では「主人が来た時、そのように行なっているのを主人に見られる」「忠実で賢い僕」に対する「祝福」(「何と幸いなる」)、46節以下では「主人の気持を知りながら、用意せず、主人の気持に従った行動もしない僕」「惡い僕」に対する主人の罰が述べられている、「八つ裂きにする」「多く鞭打たれる」。「八つ裂きにする」は元来罪を犯した奴隷に対する罰であったが、ここでは厳罰に処すとの比喩的表現。
 48節の「主人の気持を知らない者」は明らかにいまだキリストを知らず、信じてもいない異邦人が想定されている。
 教会、弟子たちが置かれた状況は、主人の旅立ちと不在で象徴される、キリスト復活後の不在の時期、教会は《勇気をなくす危険》の中にあった。またある教会的務め、羊飼い・牧会的地位にある者らは、《その職務を特権であるかのように思い込む危険》の中にあった。この時期、教会は羊飼い、教会指導者なしには、存立しえなかった。肝心なのは、教会指導者が、たゆむことなく歩むこと、辛抱、来臨への待望であった。キリストの旅立ちはキリスト者に善きものをもたらす、キリスト者に住まいを用意するためにみ子は父のもとに戻っていった、そしてキリスト者に助け主・御霊を送ってくださる、ヨハネ14:1~4、16。教会は、キリストの(誕生という)第一の到来と来臨というキリストの帰還との間の時に生きている。その間、キリスト者、指導者は希望と落胆、あわれみとスキャンダル、信仰の服従と絶望との間にあって、「そのように行動する」(43節)すなわち適切な時刻に必要なものを分かち与えること、礼拝活動を持続することが求められている。