建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

国家神道の問題(三教会同)  士師2:12

1999-6(1999/2/7)

国家神道の問題(三教会同)  士師2:12

 「かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りを引き起こした」。

 1912・明治45年2月、内務次官、床次竹二郎の呼かけで、教派神道、仏教、キリスト教(神仏基)の代表者による「三教会同」が開かれた。代表者は教派神道13、仏教51、キリスト教7名で、キリスト教の代表は本多庸一(メソジスト)、井深梶之助(日本キリスト教会)、宮川経輝(組合教会)、元田作之助(聖公会)、石川喜三郎(カトリック)ら。また政府側からは内務大臣・原敬をはじめ、司法、海軍、逓信各大臣らの高官21名が出席した。三教の代表は次の決議をおこなった。「一、われらは各々その教義を発揮し《皇運を扶翼し》、ますます国民道徳の振興を図らんことを期す」(中濃教篤「近代日本の宗教と政治」強調、引用者)。3つのポイントを取り上げたい。
 第一に、この会同には神社神道への呼かけはなされなかった。なぜか。政府は「神社は宗教にあらず」(神社非宗教論)の立場をとっていたからだ。当時神社神道内務省神社局の管轄、他方三教(神仏基)は同省の宗教局の管轄であった(社寺局は明治33年神社局と宗教局とに分離、大正2年宗教局のみは文部省に移管された)。
 そして「非宗教なる」神社神道は(1)祭祀・儀式のみをつかさどり、宗教活動、すなわち加持祈祷、葬儀、布教・教化活動の一切が禁止されていた(明治15年、神官の教導職の兼務廃止、葬儀への関与禁止)、他方(2)神道系の教団で宗教活動をするものを政府は神社神道とは別に独立を認可し組織上分離させた。それがいわゆる「教派神道」であって13派(天理教など)が認可されていた。神社は財政的にも、国家と自治体からの公費でまかなわれていた、公的機関であった。
 では、非宗教なる神社神道と他の三教との関係はどうなっていたのか。それはこうであった。神社は宗教から排除されつつ「非宗教」すなわち「超宗教的存在」として《三教の上に君臨した》。これは言い換えると「国家神道体制の完成された形」であって、神社参拝の国民、宗教者への強制は、帝国憲法第28条「信教の自由」には抵触しないと政府は主張した。
 第二のポイント。三教会同は、三教(宗教界)が内部から自発的に一堂に会したものではなく、あくまでも宗教界を管轄する当局、内務省の次官の呼かけで実現したものであった。その点では「当局者による宗教界への干渉」であった。政府は「国民教化」のために宗教界を動員したのだ。ところが宗教界は、この会議が帝国憲法が保障する《信教の自由の侵害》であるとか《政治と宗教との癒着》の危険性があるとか、さらには政府による《神社神道の非宗教としての位置づけかた》などには、何らの反対も抵抗もしなかった。
 特にキリスト教は維新以来自分たちがはじめて政府によって教派神道、仏教と《同等の取り扱いを受けたこと》を喜ぶのみで、先の問題性に対する危機意識を全く欠落していた。
 「真宗大谷派」(最大の宗教組織)は自分たちがキリスト教と同等とみなされることを侮辱として信教の自由を理由にこの会議に参加しなかった。
 第三に、決議文にある われらは皇運を扶翼し」の部分の問題。これは宗教界あげて《天皇の支配に尽力しこれを助ける》という意味だが、天皇の存在は政治的支配者、軍隊の統帥者、国民道徳の授与者(教育勅語)であるのみならず、神社神道における《最高祭司》すなわち宗教的支配者であった。他の宗教における最高祭司・天皇のために三教の宗教者が尽くすという《忠君思想》は、各宗派・教派の宗教活動の内容、信仰内容に少なからず影響を与えた。言い換えれば、三教は神社神道が三教の上に君臨する、国家神道体制を受け入れ承認しつつ《国家神道に屈伏した》ことを示すものであった。
 キリスト教でいえば、キリストを《主と告白する》キリスト者は、同時に《天皇の臣民である》生き方を何ら矛盾を感じることなく選び取った。明治初期の信仰告白条項「王命といえども信仰のゆえに屈従すべからざること」(明治4年、日本キリスト公会・公会定規・追加項目)とは矛盾する道を明治末期に至って教会は歩み出したのだ。キリスト者はキリスト告白をすることで「臣民たるの道」を放棄することをしなかった。すなわち真の意味で主告白をすることなく「二君に仕える道」をとったのだ。キリスト教界は全体的にこの会議を歓迎するのみであったが、例外的に内村鑑三柏木義円がこの会議を批判した。
 柏木は評論「政府のいわゆる宗教利用」の中でこう述べている
 「宗教を単に治術の具とし、《これを利用する》程世道人心に深害なるはなく、宗教そのものを腐敗せしむるまたこれより甚しきはなきなり。…《政府としては憲法が保障せる信教の自由を重んじ、あくまでも公平に国民の信教の自由のを尊重すれば足れり。政府がそれ以上のことをなすは、吾人のむしろ望まざる所なり》。それ以上に敢て《宗教に干渉する》がごとき、吾人の甚だ好まざる所なり。政府が世話して各宗教家の連絡を取らんとするがごとき無益なり。…聞く、神仏者の中には《キリスト教と対等と見らるるを不快として、今回の内務省の計画に反対する者あり》[真宗大谷派のこと]。曰く、百万の信徒を有する者と僅少の信徒を有する者と同一視されてはたまったものに非ずと。…吾人は彼らの反対の動機を陋[ろう。見解が狭いこと]とす」(1912・明治45年2月)。
 真宗大谷派のみがこの会議に参加しない理由は、少し複雑な背景がある。
 かつて教部省のもとでなされた「神仏合併布教」運動、神官、僧侶(教導職)による「敬神愛国、皇上奉載」の国民教化政策(明治5~8年)に対して、西本願寺の僧、島地黙雷は、留学中のパリから政府に建白書を送り(明治5年)、「敬神愛国」(「三教の教則」でいう)は「政教混同」であり、また「神道と仏教を採合して一宗教をつくりあげて国民に強制するのは本末転倒である」と批判した。彼の見解を採用した「真宗四派」は大教院を離脱して(明治6年)、この結果「大教院」(芝の増上寺に置かれた)は解散し(明治8年)、教部省もまた廃止され(明治10年)かくてこの神仏合併布教キャンペーン(政策)は挫折した。真宗には明治初期においてこのような政府の宗教政策と正面から対峙する独自の姿勢がみられたのだ。三教会同に対する大谷派の不参加には、信教の自由を根拠とした本質的抵抗であったのではないかと思われる。
 三教会同の影響。さてこの三教会同の6ヵ月後、7月30日明治天皇が死亡した。キリスト者はその死の追悼文において天皇の「忠実な臣民」ぶりを発揮した。
 「(陛下は)信教の自由確立せられ、かつて幾多殉教者の血を染めたる国において、心を安んじてその道を信ずることを得るはキリスト者の深く感謝するところなり」(福音新報、1912・明治45年8月1日)。「…聖徳天のごとく、聖恩海のごとし。臣ら隆治のもとにあり、信教の自由をうく、臣ら感荷何ぞ堪えん。…」(同、9月12日)。
 当時のキリスト者は信教の自由を「天皇の聖恩」をとして「恩賜的権利」としてうけとめていたのだ。欧米におけるような、国民が政府や王に対して要求して実現する「回復的権利」として「信教の自由」をみていなかったのだ。
 欧米の場合とは違って、多神教天皇制のもとでキリスト告白をすべき日本のキリスト者は、十戒にある「偶像礼拝の禁止」あるいは「王命といえども道(信仰)のゆえに屈従すまじきこと」を真剣に考える必要がある。