建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

「地上に火を」  ルカ12:49~53

1999-7(1999/2/14)

「地上に火を」  ルカ12:49~53

 「地上に火を投げるために、私は来たのだ。その火がすでに燃え出していたらと、どんなに私は願っていることか。私には受けねばならない洗礼がある。それが実行されるまでどんなに苦しい思いをすることであろう。平和をもたらすために私が来た、とあなたがたは考えているのか。そうではない、私はあなたがたに言う、多くの仲たがいを(もたらすためだ)。というのは今から後、一つの家にいる五人のうち、三人は二人と、二人は三人と仲たがいするからだ。父はその息子と、息子は父と、母はその娘と、娘は母と、始は嫁と嫁は姑とである」。
 並行記事はマタイ10:34以下。
 ここの「火」は神の審判の意味ではなく、聖霊の意味であろう。特に「その火がすでに燃え出していたら」は、御霊によるきよめのニュアンスが強い。「火がすでに燃えている状態」というのは、イエスの福音が宣教されることをとおして、弟子たちの群れが生まれイエスの死と復活をとおして、聖霊の降臨をとおしてキリスト教会が生まれる 既成の神の民イスラエルの中にキリストの福音が入っていくことで、神の民の中にひびが入り、対立が起きてくる。福音を信じる群れが形をとって活動を開始しする、これイエスが「投じた火が燃え出す」である。
 そして「地上で火が燃え出す」には、水、すなわちイエスの受けなければならない洗礼言い換えると、イエスの苦難と死(22:24「杯」)が不可欠であったし、イエスはそのことを意識しておられた、「苦しい思いをする・心配でならない」は苦難と死に対するキリストの不安をしめしている、50節。
 51節以下は新しい転回。
 イエスが来られたのは、「親子を仲たがいさせるためである」51節。これは実際重たい言葉である。並行記事のマタイ10:36~37「家族が自分の敵となるであろう。私よりも父や母を愛する者は、私の(弟子には)適していない。私よりも息子や娘を愛する者は、私に適していない」。
 イエスとの出会いが「親子を仲たがいさせる例」は歴史的にもいくつかある。アッシジのフランシスの例もある。
 明治初期、プロテスタントの最初の教会、横浜公会の公会規定・追加項日の第3条には「父母血肉の恩に愛着すべからざること」とある。
 現実の問題として、神に愛される体験そのものは、親と子の愛のあり方を批判して、愛するということの吟味を追る。エゴをまとわりつけた親子の愛は、神に愛される体験に照らしてみると、愛とは思えないように映る。神の愛は親子の愛を裁き、「剣(戦い)をもたらすためにイエスは来たのだ」(マタイ10:34)と実感できる。神に愛されることは、親子の愛を切断してしまうこともある。キルケゴールはこれを「倫理的なものの目的論的中断」と呼んだ。神の愛という究極のもの(目的論)が、親子の愛という「倫理的なもの」を「一時的に中断させる」のだ。中断して後に新たに「正しいありかたに位置づけられるのだ」。というのは確かに「イエスよりも父母、息子娘を愛する者は確かに、イエスの弟子に適していないからだ」。一時中断されてまた新たにつなぎあわされる、これがイエスと親子の愛との関わりかたである。イエスよりも家族を愛する、ここでは「火がすでに燃え出している」とはいえない。マルコ3:31~35。
 日本のようなある点で「儒教的な孝行」「家族主義」という道徳が重視された社会において「親よりもイエスをより愛するという新しいエートス・倫理を確立する」ためには先の横浜公会の追加項日はきわめて的確な規定であった。マタイ10:36~37を慰めとする者となりたい。