建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

18年病気の女  ルカ13:10~17

1999-9(1999/2/28)

18年病気の女  ルカ13:10~17

 「イエスは会堂の一つで教えておられた。すると見よ、そこに18年間病気の霊にとりつかれた女性がいた。彼女は体が曲がっていて真直ぐ伸ばすことができなかった。イエスは彼女をご覧になってご自分のほうに呼び寄せて言われた『婦人よ、あなたは病気から解き放たれている』。そして両手を彼女に乗せられた。すると彼女の体はたちどころにまっすぐにされ、彼女は神を讀美した。ところが会堂の長はイエス安息日に病気を癒されたのに憤慨し、群衆に向って言った『人が働くべき日は6日ある。だからその間に来て、癒してもらえばよいだろう。安息目ではいけない』。主は答えられた『偽善者よ、あなたがたはだれでも、安息日に牛やろばを小屋から解いて、水を飲ませに連れていかないのか。この人はアブラハムの末裔であるのに、18年もの間サタンが縛っていたのだ。安息の日だからといってこの縄目から解いてはいけないのだろうか』。イエスがこう言われると、敵対者すべてが恥いり、群衆全体はイエスをとおしてなされた驚くべき出来事を喜んだ」
 ここはルカ特殊記事。
 一読してわかるとおり、イエスと当時のユダヤ教との対決、安息日における病気の癒しの是非をめぐる論争がテーマとなっている。すなわち「安息日に病気を癒すことは正しいか、正しくないか」(ルカ14:3)である。
 イエス安息日に手のなえた人を癒した話は、すでにルカ6:6~11にある。6:7「律法学者とパリサイ人たちは、イエス安息日にいやしをされるかどうかと、ひそかに様子をうかがっていた」。このほかヨハネ5:9~18、特に「ユダヤ人が病気を癒された人に言った『今日は安息日だ。担架をかつぐのは許されていない(律法違反だ)』」(5:10)。担架をかつぐことは労働とみなさたので「律法違反」と指摘されたのだ。ヨハネ9:14「イエスが(地に唾を吐きその唾で)《泥をつくって》彼の目を開けられた日は安息日であった(これは律法違反だった)」。事実、安息日に「泥をこねること」は戒めで禁じられていた(シュナッケンブルクの注解)、それゆえイエスの「泥をつくる行為」が律法違反とされた。眼目は癒しのためであっても律法違反になるのかである。
 さらにルカ14:1~6もこのテーマをあつかっている。
 14:5「イエスは彼ら(律法学者、パリサイ人)に言われた『あなたがたの息子か牛が井戸に落ちた時、安息の日だからといって、引き上げてやらない者があるだろうか』。彼らはこれに対して答えられなかった」。この例のように安息日でも事故にあった家畜を助け出すことは一般に行なわれていた、つまり認められていた、マタイ12:11。ただしエッセネ派だけは牛の出産の手助け、穴に落ちた家畜を引き出すことを禁じたようだ(エレミアス)。こうして見てくると、イエス安息日に関して問題を起こしたことは、イエス伝承の確実な特徴に数えあげられる(エレミアス)。
 10~17節もこのような安息日におけるイエスの癒しと論争を取り上げている。
 11節。「病気の霊に取りつかれた女」、彼女の病気は身体的障害であったが、その障害は「体が曲がって真直ぐに伸びない」とある。その障害の原因は「病気の霊にとらえられているから」と述べられている。「18年間」という表現で彼女の長い苦しみが示唆されている。
 12~13節。イエスはこの女性を見て呼び寄せられる。 これは彼女に対する「慈悲」を示している。「婦人よ、あなたはあなたの病気から《解き放たれている》」は、病気はなおったと告げているのだが、この「解放」は16節の彼女を「18年もサタンが縛っていた」点をふまえたもの。病気の癒しはこのサタンの支配への勝利を意味している。だからこの癒しが《主の安息日になされた》ことは、この日が彼女にとって真に「安息の日」(16節)になったことになる。「そして彼女は神を賛美した」(13節)は、彼女が長い宿痾から解き放たれたことを「神の業として」とらえ、神への感激と感謝、喜びを表したものとなっている。
 14節。「会堂の監督」(8:49、行伝13:15、18:8など)は、会堂や礼拝の秩序をまもる責任者。「イエス安息日に癒しをされたことに憤慨した」(14節)。彼はユダヤ教の指導的人間として、出エジ31:12以下、特に14節「この日に仕事をする者はすべて民のうちから断たれるであろう」を厳密に守る立場にあった。彼の目にはイエスの癒しは「仕事」に映り、それは安息日の厳守に違反したとみえたのだ。
 15節。イエスの反論。「安息日には小屋から牛や聽馬を《解いて》水を飲ませに連れていかないのか。この女性はアブフハムの末裔であるのに、18年も悪魔が《縛っていたのだ》。安息日だからとて、その《束縛から解いては》はならないのか」。「アブラハムの末裔」という用語を使うことでイエスは彼女が敬虔なユダヤ人の「隣人」であること、神の愛をうけるにふさわしい存在であることを強くアッピールした。家畜には、安息日に束縛から解放して、のんびり水を飲ませる安息を与えるのに、隣人、病人の隣人がサタンの束縛から解放される、病気の癒し・安息を与えることに対しては、非難する、その矛盾した監督のふるまいをイエスは批判されている、それは「偽善者だ」と(15節)。マタイ12:12の言葉「人間は羊・家畜よりどれだけ大切かしれない。だから安息日に善いことをするのは正しい」はここでも妥当する。
 安息日に宿痾の女性をサタンの束縛から解放する、これは表面的には「安息日の戒め」に違反するが、真に「安息日を安息の日とする」のであれば、癒しは安息日違反にはならない。神は病人がサタンの束縛からこの日に解放されること、そして神讃美があがることを喜ばれるはずだ、これがイエスの反論であった。この反論に会堂監督とそれに同調するパリサイ的な仲間「敵対者」は恥じ入り、群衆すべてはイエスのなさった癒しとその反論の正当性を受け入れ、喜んだ。