建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリシタン弾圧・高木仙右術門(二)

1999-18(1999/5/9)

キリシタン弾圧・高木仙右術門(二)

 明治政府の弾圧。この三ヵ月後、明治政府が成立、しかし明治政府もキリシタン禁制の高札をかかげ、神道を国教化を目指した(一八六八・慶応四年三月)。翌四月、浦上の戸主一八〇名が九州鎮撫総督沢宣嘉(後に外務卿)に召喚された。むろん在日の欧米公使団から強い抗議がでた。九州鎮撫府では対処しきれず、問題は新政府閣僚の手にゆだねられた。処分は中心人物百十四人の流刑(他国預け処分)と決った。流刑先は津和野(二八名)萩(六六名)福山(二〇名)であった。仙右衛門、守山甚三郎は津和野。ー八七〇・明治三年一月浦上の戸主および家族全員の流罪・移送が決った、三三九四名、一村総流罪であった。
 流刑先の津和野では仙右衛門らに厳しい拷問も待ちかまえていた。一八六九・明治二年一二月、 仙右衛門と守山甚三郎は氷責めにあった。
 「下役にいいつけて私を裸になして、池に入れました。時に寒さは針で突き刺すがごとくでありおましたので、私は大声でオラショ・祈りをいいましたら、役人が怒って四方から水をくりかけました。私が死にそうなったので、役人は早くあげよ、というて池からあげられ、もとの責め場(拷問室)に据えられて『これでもかんべん(改宗)せぬか』と申されたので『とてもかんべん・改宗なりません』と申しました。それから吟味をうけまして、焚火で暖められたので、身体じゅうがうずき、次に悪寒、戦慄がきて歯も抜けるかと思いました」(「覚え書 津和野にて」)。仙右衛門は責め苦に耐えぬいたのだ。
 他方、役人の訊問に対して仙右衛門はこう答えた。
 「三百年この方、キリシタンの教えの悪いということは聞ません。ただ天地の御主を信仰いたしまする。この万物の御親天主(デウス)にご奉公する道でございますがゆえに、先祖よりも言い伝えられてこれを代々信仰いたしておりまする。この上いま新しき教えを聞きまして、なお心は丈夫になりておりますゆえに、これをやむるようにあればここまでまいりません…けれども終わりなき天の幸福を求むるためにいかなる責苦に逢うても改心することかないません。この上、いかようなことがありましても改心するということはできません。…天主の御計らいで天子(天皇)さまより食物を与えられます。それができなければ食べずにおりまする。また仏や神道はまことの教えではありません。仏や神道の教えによって助かるようにありますれば、キリシタンを守り、御禁制を受けて、わが里を捨て、妻子を捨てて、ここにこうしてまいりません。それゆえに私どもは改心するということはできません。ただ今のごとく食物を食べさせずに、生きもならず、死すこともできぬようにせずとも、キリシタンを守りて日本の国法を破ると思いなさるならば、その罰として殺すなりとも、これにあたる罰を与えてよろしゆうござろうと思います。今のごとくにして段々に死にいたらせしむることは隠し殺しでござる」。
 明治政府によるキリシタン弾圧に対して、仏米独の公使から「申し入」がなされた。アメリカ公使は、宗教信仰のことで政府が農民や町人を流罪にし労役を課す処罰をすることを外国人が聞けば従来の和親の情もたちまち損われる、と警告した。ドイツ公使は、日本政府は四百年前欧州で宗教のことでひどい処罰をくわえた過ちを犯している。これを改めないと世界中から日本政府はいやしめられる、と述べた。政府の外務閣僚と英米仏独の公使団との会談もおこなわれた。英国公使アダムスの要請で英領事と政府の外務官が流刑先のキリシタンの待遇の実情調査をおこなうことになった(一八七一・明治四年一月)。
 おりしも岩倉使節団が欧米視察・条約改正交渉に出た(一八七二・明治四年一二月)。しかし欧米の各政府から、キリシタン弾圧のゆえに使節団は厳しい応対に出会った。アメリカ政府側は浦上のキリシタン弾圧を取り上げ「宗教の苛責ををやめなければ、自由な交際(条約改正)はできない」と言明した。キリシタン禁制の政府には治外法権の撤廃はできないとの見解である。在米中の外交官森有礼は「日本宗教自由論」を使節団に建白した。
 イギリス政府の見解も同様で、キリシタン迫害を日本政府が中止しなければ、条約改正交渉は進展しないというものであった。周知のようにベルギーでは市民が岩倉大使の馬車に押し寄せて浦上キリシタンの釈放を叫んだ。岩倉の欧州からの電報によって、政府はキリシタン禁令の高札を撤去した(一八七三・明治六年二月)、同時に流罪キリシタンの帰郷を許した。禁制の廃止は、政府が信教の自由を基本的人権として承認したものではなく、欧米各国政府の強硬な批判をかわし、条約改正を獲得するための方便であった。
 とにかく同年五月仙右衛門らは浦上に帰りついた。しかし流刑にあった三三九四名のうち六六二名がその間に殉教した。拷問、病気、栄養失調などで死亡したのだ。棄教した者の数は不明であるが一〇〇〇余名とみなされている。浦上に帰ったのは一九三〇名、そのうち七七〇余名は家がなく、バラックを建てて住んだ。畑も荒れて農具も生活必需品なく(掠奪されていた)食料も乏しかった。
 一年後の七年七月、付近に赤痢が大発生して浦上にも広がった。岩永マキら(流刑経験者)が献身的に救護活動してド・ロ神父を支えた。仙右衛門は自分の小屋をマキらに提供した。被害は最小で食い止められた。後にこの仙右衛門宅は「十字会」という修道会となり(明治十年)孤児院施設になった。明治一三年には浦上に天主堂仮会堂が建てられた。むろん仙右衛門もこのために奔走した。さらに十四年に彼は本原郷平に十字架を建立した今日の「十字架山」である。この年仙右衛門の息子、源太郎ら助祭に叙階、十五年にはプチシャン司教より彼らは叙階された。
 一八九九・明治三二年四月仙右衛門は永眠、七五才であった。今年が没後百年である。仙右衛門の墓は文献などにはしるされていないので、是非とも訪ねたいと思った。そこで浦上の本原のあたりをうろつくことにした。たまたま通りかかったシスターに尋ねるとすぐに案内してくれた。途中に保育園があったが、それがもと仙右衛門宅であった。墓は立派なもので記念写真をとった。
 仙右衛門については曾孫にあたる高木慶子という人が「高木仙右衛門 覚書の研究」を出版している(一九九三)。
 仙右衛門の果した役割について考えると、第一に、 自分の信仰をつらぬくことに存在を賭けたこと、幕府と明治政府の弾圧に屈伏せずに最後まで抵抗した点がある。自分の生命を賭けて、権力の宗教弾圧に抵抗し、厳しい拷問や訊問にも、自己の主張をひるむことなく表明したこと。これは従来の日本には存在しなかった近代的な人間像であった。第二に、彼の国家・権力への抵抗は、キリシタン禁令を廃止させた一つの基礎を与えたこと。第三に、キリスト教一神教であるということは、仏教も、神道も、神社も天皇をも拝むことをしない、それらへの改宗を迫られても、決然と拒否することこのことを身をもって私たちに証言してくれたこと。私たちプロテスタントの人間も仙右衛門の信仰的抵抗の精神を受け継ぎたいものだ。