建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

復活問答  ルカ20:27~40

1999-26(1999/7/14)

復活問答  ルカ20:27~40

 「サドカイ人の数人がイエスに近寄って、質問して言った。サドカイ人は復活は決して存在しないと主張してた。『先生、モーセは、ある人の兄弟が結婚していて子供がいない時には、その者の弟がその女性をめとり、その兄の子孫をもうけよと、私たちに書いています。ところで7人の兄弟がいて、長兄が妻をめとり、子がなくて死に、次男、三男が(次々に)その女性をめとり、同じように7人(全員)が子を残すことなく死んで、とうとうその女性も死んでしまった。さて復活の場合にはこの女性はどの7人の兄弟うち誰の妻になるのですか。7人ともこの女性を妻にしたのですから』。イエスは彼らに言われた『この世の子らはめとったり嫁いだりする。しかしあの世と死人からの復活に至る資格があるとみなされた人々は、もはやめとったり嫁いだりしない。彼らはもはや死ぬことはできないからだ。彼らはみ使いと同じであり、神の子らであるからだ。彼らは復活の子らなのだから。しかし死人が起き上がることをモーセは茨のやぶのところで、主を<アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神>と呼ぶことで(これを)示している。ところで神は死人の神ではなく、生きている者の神である。神にとってすべての者が生きているからだ』
 すると数人の律法学者が答えて言った『先生、あなたはりつばにお答えになりました』彼らはもはや何ひとつイエスに問おうとはしなかった」
 並行記事は、マタイ22:15以下、マルコ12:13以下。
 サドカイ人というのは、ユダヤ教の一つの集団で金持の祭司階級、最高法院の重要な集団。彼らはダヴィデ、ソロモン時代の祭司サドクの末裔と称し、前2世紀から力を持ち始めた。現世的には特にへロデ王朝との結びつきを強め、ギリシャ文化に開放的で、ヘロデ王家の親ローマ政策を支持、宗教的にはエルサレム神殿に仕え、保守的で、モーセの「書かれた律法」のみを認め、他の「口伝律法・言い伝え・ハラカー」を否定、その点でパリサイ人と対立もした。彼らは復活、天使、霊、説理などを否定した。イエスは「パリサイ人とサドカイ人」を「まむしの子ら」 と批判された、マタイ3:7。
 サドカイ人は「復活は存在しないと主張していた」(20節)が、彼らがイエスに質問した内容は、 彼らが「復活を認めているパリサイ人」と日頃論争したものと同じであったようだ、フッツマイヤー。サドカイ人は自分たちの「論拠」としてモーセの律法をもってくる。
 28節の内容、兄が死亡して後継ぎの子がいない場合、弟がその兄嫁を妻にして後継ぎの子をもうけよ、はいわゆるレビラート婚と呼ばれるもので(レビラートはラテン語で夫の兄弟の意味)、申命25:5に由来する。サドカイ人はこの箇所を根拠にして論を立てている。29~33節。
 34節「この世の子ら(人々)はめとったり嫁いだりするが、あの世と死人からの復活とに達するのにふさわしいとみなされた人々はめとることも嫁ぐこともないであろう」ここで「ふさわしいとみなされた」は神的受身形。36節「彼らは復活の子らである(=復活によって生まれる)から、彼らはもはや死ぬことができないからであり、天使と同じようであるからであり、神の子らであるからだ」。「もはや死ぬことができない」は不死的存在のこと。後期ユダヤ教エチオピア・エノク15:6「霊的存在、死ぬことのない永世にあずかっている存在」。「天使と同じようである」はバルク黙示禄51:10「天使に似たものとなり」に同じような表現がある。「非身体的で清められた魂」の存在ということか。ここではイエスは《復活の存在》を男女の結婚によって生まれる子《地上的存在と全く断絶したところの存在》と見ておられる。
 37節「死人が起き上がらされる」。「起き上がる」は復活。受け身形は神的受け身。「モーセによって《燃えるいばらのやぶの話》で死人の復活が啓示された」。サドカイ人は復活を否定する論拠をモーセ5書にしるされていないからとみるが、イエスは逆に出エジ3章を復活の論拠となさる。「燃えるいばらのやぶの話」はむろん出エジ3:2「主のみ使いはしばの中の炎のうちに彼・モーセに現われた。彼が見ると、しばは火に燃えているのになくならなかった」。「主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』(出エジ3:6)と言ってこれ(死人の復活)を示している」。ここは少し難解、ポイントはヤハウエがご自身をモーセにずっと以前の族長たちの神として示された点である。神ご自身が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」としてモーセに啓示されたという場合、《族長・アブラハムらは生きている存在》とイエスは解釈なさる。
 「アブラハムの神」という場合、神は「死人の神ではない」(38節前段)から、アブラハムはずっと以前に死んだ「死人の彼」ではなく、むしろ「神にあって今なお生きている」彼である。神は「生きている者の神である」(38節中段)から。
 第四マカベア7:19にもこうある「心から信仰に心を用いる人々のみが、われわれの族長アブラハム、イサク、ヤコブのごとくに、神にあって死ぬことはなく生きる」。同16:25「神のゆえに死ぬ者は、アブラハム、イサク、ヤコブのように、神にあって生きる」。
 ここでもアブラハムら族長が、神にあって永世、不死性をもつと述べている。「神にあってはすべての者が生きている」(38節下段、「すべての者」は族長ら、復活にふさわしいと認められた者)。アブラハムらの永世、不死性はどのようにして実現したのか。神が彼らを復活させて、今も永世に生きさせられたからだ、これがイエスの解釈である。
 「旧約聖書における死人の復活」については、通常後期ユダヤ教の時期のものに由来する。サドカイ人が論拠とするモーセ5書にみられない、というのが普通。ダニエル書12:2「地のちりの中に眠っている者は《目をさます》でしょう」。イザヤ26:19節ーここは後期ユダヤ教時代のものとされているーー「あなたの死者は生き、よみがえるだろう。ちりに伏す者よ、さめて喜び歌え」、25:8「主はとこしえに死を滅ぼし、すべての顔から涙をぬぐい」。
 新約聖書は「死人の復活についての思想」からではなく、イエスの復活から死人の復活が論議される、第一コリ15章「死人は《朽ちないもの》によみがえがえらされる」15:52。