建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

寡婦のレプタ  ルカ21:1~4

1999-27(1999/7/11)

寡婦のレプタ  ルカ21:1~4

 「それからイエスは目をあげて、金持たちが(神殿の)賽銭箱に献さげもの(献金)入れるのをごらんになった。またある貧しい寡婦がレプタ銅貨二つを入れるのに目をとめて、言われた、『ほんとうに私はあなたがたに言う、この貧しい寡婦は誰よりも多く入れた。この人たちはすべてあり余るものから献さげものをしたが、この婦人はとぼしいものの中から、自分の持っている生活費全部を入れたのだから』」
 並行記事はマルコ12:41以下。
 内容的には、神は富める者の豪華な・多額の献さげものよりも貧者の乏しい献金をお喜びになる点がポイントである。用語的には「献さげもの・ドーロン」は「献金」協会訳「さいせん」塚本訳、「喜捨」フィッツマイヤー訳、「献さげもの」レンクシュトルフ訳。他方、第一コリ16:1「聖徒たちへの献金」はロゲイヤで別の用語。舞台はエルサレ神殿にある賽銭箱・金箱の近くである。マルコ12:41「それから賽銭箱の真向いに座って」2節の「貧しい寡婦」の「貧しい」は乞食・プトーコスではなく、ペネスで「ぎぎりの生活」の意味。この寡婦は年配とか、病気だとかは何ものべられていない。「レプタ」は一番の小額銅貨。この箇所の寡婦は20:45以下の、律法学者の偽善へのイエスの批判をふまえたもの。彼らの「目・関心」は神にはむけられていないで「人々から尊敬されることに心を砕いている」。
 この箇所のポイントについては(1)献金の尺度は献金額ではなく、むしろ自分の持っているものをどれだけ献さげたかのパーセンテージである(テイラーなど)。1節の「金持たち」は「あり余るものの中から」(4節)おそらくたくさんの献金をした。先の律法者の態度とかさね合わすと、たくさんの献金は「人々にその額を誇り、自分の敬虔さをせびらかす」感じがする。彼らは多額の献金をしても、そのバーセンテイジは低い。
 (2)献金の量ではなく、どのような精神で献金がなされるかがポイント(ヘンヒェンなど)。この精神は例えば、自己奉献、無私の心、信頼しきった神服従の心といったもである。寡婦は「乏しいもの中から、自分の持っている生活費全部を入れた」。「自分持っている生活費全部」をささげる、ということは現在の自分を、あるいは自分自身をささげたということになる。
 (3)この寡婦・やもめがどのようにして自己奉献ができたのか。神は法的な弱者に特別の関心をもつという考えは、旧約聖書以来の伝統である。詩68:5「神はみなし児の父、やもめの保護者」146:9「主はみなし児とやもめを支えられる」。ルカ4:26,ヤコブ1:27参照。法的な弱者、孤児ややもめ、貧しい人の側では、自分を神にのみ投げ出された存在、神のみを求める存在であるとの自覚が生まれる、自分の事柄を自分行なうことを拒否する神信頼が生まれる。神の前に義の行動とは「寄留の他国人とみなし児をやもめを虐げることなく」エレミヤ7:6、ゼカリア7:10。したがって神の前で悪・悪しき行為とは「やもめとみなし児を虐げる」マラキ3:5、ルカ20:47。エレミア49:11には「あなたのみなし児を私に任せよ、私が養おう。あなたのやもめは私に頼ってよろしい」とある。
 この話のやもめの献金は自分を神に投げ出している姿勢を示すものである。「彼女は乏しいものの中から自分の持っている生活費全部を入れた」4節は、やもめが自分のすべて・自分自身をいれた、自分を神に投げ出したことを意味している。律法学者は神との関わりに心が向かないで、人々の尊敬を得ることに心を砕いた。他方このやもめは神のみに心を向けて、自分を神に投げ出している。イエスはこのことに目を止められた。真の神礼拝はこのような自己奉献であることを示そうとされた。