建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

世の終りの前兆  ルカ21:5~l9

1999-28(1999/7/18)

世の終りの前兆  ルカ21:5~l9

 「ある人たちが神殿が美しい石と献納品とで飾られていることについて、イエスに話すと、イエスは語られた『あなたがたが見ている(これらの)ものが重なっている石が一つもなくなって、くずされてしまう日が来るであろう』。
 そこで彼らはイエスに質問した『先生そのことは一体いつ起こりますか。またそのことが起ころうとする時に、どんな前兆がありますか』。イエスは語られた『惑わされないように気をつけなさい。というのは多くの人が私の名をかたって<メシアは私である>とか<(終りの)時は近づいた>とか言うであろうから。そういう人々についていくな。あなたがたが戦争や騒乱について聞いても、驚くな。それらのことはまず<起こらなければならない>からだ。しかしまだ終りではない』。
 それから彼らに言われた『民族は民族に、王国は王国に敵対して立ち、大地震やあちこちで疫病、飢饉があり、また恐ろしいこと、天から大きな兆しが現われるだろう。しかしこれらのことがある前に、人々はあなたがたに手をかけて、あなたがたを迫害するであろう。あなたがたを会堂や牢獄に引渡し、私の名のゆえに、王や総督の前に連れていくだろう。あなたがたは(福音を)証言するはめになるだろう。しかし前もって弁明の用意をしないように、決心しなさい。というのはあなたがの敵対者すべてが逆らうことも反論するこもできない口(言葉)と知恵を私があなたがたに与えるからだ。あなたがたは親、兄弟、親族、友人によって(裁判所に)引き渡されるだろう。彼らはあなたがのある者たちを殺すだろう。またあなたがたは私のゆえにすべての者から憎まれるだろう。しかしあなたがたの髪の毛一本も決して頭から失われない。あなたがたの辛抱をとおしてあなたがたは自分の生命(心)を獲得するだろう」レンクストルフ訳。
 この箇所の並行記事はマルコ13:1以下、マタイ24:1以下
 5~6節はエルサレム神殿崩壊の預言。しかしながら、ルカ伝の場合、エルサレム神殿崩壊は「すべてのことが成就する時」(マルコ13章)つまり「世の終り」とは関係ない事柄であって、エルサレム神殿の崩壊は、エルサレムの崩壊、ユダヤの滅亡であって、終末の事柄(マタイ24:14)ではない、このことをきちんと理解すべきである。
 7節はエルサレム崩壊の「前兆」についての質問であるが、これに対するイエスの答えは膨大なものである、8~19節。
 その前兆は第一に、偽のメシアの登場である、8節。「メシアは私である」は、直訳では「私はそれである」で、神の顕現の定型的表現。「時は近づいた」も「カイロスが到来した」すなわち「終りの時が来た」という意味。しかもここではそれらがイエスの教えではなく「偽のメシアの言葉」とみなされている点が特徴である。彼らは「イエスの名」を悪用する偽のメシアである。だから「彼らの後について行くな」とイエスは警告される。
 第二の前兆は、政治的な破局、「戦争や騒乱」9節、「民族と民族、王国と王国との敵対的な関係」10節。「しかしまだすぐ終りが到来するわけではない」(9節)ことが特に強調されている。
 第三の前兆は天変地異「大地震、疫病、飢饉」、宇宙的な異象の出現、星や彗星「天からの恐ろしいことと大きな兆し」の出現(11節後半)。
 重要なのは12~19節の弟子・キリスト者たちにみまう《追害の運命》である。この迫害は「これらすべてのことの前に」起きる(12節前半)。すなわちポイントはやがて訪れる「世の終り」でも「終りの前兆」でも、そういった将来に着目することでもなく、将来に向けられた人々の目を「今ここにある出来事・弟子たちの迫害される運命という現在」へと移して現在に着目させる点にある。
 「迫害」の内容。「会堂や牢獄に引き渡す」においては、迫害者はユダヤ人を想定している(行伝4章、祭司長、宮守頭、サドカイ人、7章ステパノの殉教)、「王たちや総督の前に」の場合、迫害者はへロデ・アグリッパ王など(行伝12章ヤコブを殺した)異邦人の支配者(総督ピラトやフェスト・行伝24:27)が考えられる。「迫害」は「私・イエスの名ゆえ、イエスゆえの迫害」である点は強調されている。
 他方ルカ伝は「迫害」がマイナス面のみではないことを理解させようとしている。
 第一に、弟子たちの連行、投獄は審問・裁判のためであるが、まさしくこの裁判は弟子キリスト者らに「イエスの名、イエスについて証言する機会を与える結果となる」13節という。行伝4:5~13ではサンヘドリンに引き出されたペテロの「聖霊に満たされた」演説すなわち「証言」に議員たちがびっくりしたとある(明治初期、キリシタン弾圧の時、弾圧側の役人大隈の言葉、高木仙右衛門の例)。一般的に言えば迫害された者たちの言葉は人の心を打つものがあって、迫害された理由(その宗教)について人々の関心を引き付け、その主張・教え「証言」は広まる結果をもたらすものだ。
 迫害される者にとって肯定的な側面の第二のポイントは、その迫害において「独特のイエス体験ができる」点である。「証言」について「前もって弁明の用意をしないように決意せよ」とイエスは教えておられる、14節後半。ルカ12:11「人々があなたがたを会堂や役所、官庁に連行した時には、何をいかに弁明しようかと心配するな。言うべきことはその時《聖霊》が教えてくださるからだ」。この点がここでは大きく進展している。迫害に出会っている弟子たち、キリスト者に対して、相手が反論も論駁もできないような「口と知恵」を与えてくださるのは、ほかでもなくイエスご自身である。かしこ、ルカl2:11では「聖霊」が弟子たちに弁明の言葉を与えてくれるとイエスは語られた。ここでは聖霊ではなく、それに代わって《イエスご自身が》迫害される者たちと共にいて、弁明の言葉と知恵を与えてくださる。《イエスは迫害を受ける者と共におられて彼らを支え・助けられる》これが迫害時における独特のイエス体験である。
 19節は直訳だと「あなたがたは《持ちこたえること》で、自分の《魂》を獲得するだろう」。「持ちこたえること・ヒュポモネー」は忍耐、我慢、辛抱の意味。迫害の状況においても、硬直したりやけを起こしたりせず、のんびり構える、足を踏張って辛抱すること(これはパウロが説いた「練達」のことである)。一時的な忍耐や「近き終末・最後まで耐え忍ぶ」(マルコ13:13)は考えられていない。「持続的な」辛抱のこと。すぐには終末は到来しないし、やがて到来するわけでもなく、当面この現在の迫害の状況は継続するから。この状況のもとで、弟子たち、キリスト者がどのように対処するかについてはルカ12:35以下、善い僕悪い僕の譬、19:11以下、タラントの譬などである。
 「自分の魂・プシュケー」の翻訳は「生命」塚本訳、フイッツマイヤ一訳、「心」レンクシュトルフ訳。「真の生命」の意味にとれる。迫害に対して辛抱し、持ちこたえることをとおして、弟子たち、キリスト者は真の生命に到達する。迫害を持ちこたえるキリスト者は「真の生命」を神から与えられる。