建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ゲッセマネ  ルカ22:39~46

1999-34(1999/9/12)

ゲッセマネ  ルカ22:39~46

 「それからイエスは(都を)出て、習慣に従って、オリーブ山への道をとられた、弟子たちもイエスについていった。イエスはその地点に着くと、彼らに言われた『誘惑に陥ることのないように、祈っていなさい』。それからイエスは彼らから離れて石を投げて届くあたりにいって、ひざまづいて祈られた『父よ、どうぞこの杯を私から取り去ってください。しかし、私の意志ではなく、あなたの意志がなりますように』。
 43~44[その時、天からひとりのみ使いがイエスに現われて力づけた。
       イエスは苦悶の中で心をこめて祈られた。
       その汗が血のしたたりのように地に落ちた]
 イエス祈りから立ち上がって、弟子たちのもとにこられると、彼らが悲しみのゆえに眠っているのを見て、彼らに言われた『なぜ眠るのか 誘惑に陥らないように起きて祈っていなさい』」フィッツマイヤ一訳

 平行記事マルコ14:32~42、マタイ26:36~46。
 最後の晩餐の後、イエスエルサレムの街から出て、オリブ山のふもと、ゲッセマネの園を目指していかれた、39節。オリブ山はエルサレムの城の束1キロ、海抜814メートルの山、その西のふもとにゲッセマネの園がある(ヨハネ18:1、マタイ26:32 )、そこにはオリーブの巨木が数本あるという。
 注意深く読んでいくと、ゲッセマネの名(マルコ14:32、マタイ26:36、ゲッセマネという名は「オリブしぼり」の意味らしい)は、ルカ伝には「その地点」とあるだけでその名は出てこない。ルカ伝は焦点をオリブ山に置いているから。旧約聖書のゼカリア14:4「その日、主はオリブ山に立たれる」とあり、オリブ山はユダヤ教では神顕現の場と考えられたが、ルカ伝ではイエスの苦難、祈りと捕縛はこの山で起きる。
 イエス祈りのシーンをマルコ伝と比較してみると、マルコ伝ではイエスは弟子たちより離れて、ペテロ、ヨハネヤコブ3人のみを連れて3度祈りにいくが、ここでは1度。マルコ伝では、イエスがもどられるとべテロら3人は眠っていた。ここでは弟子たちすべてが眠っていた。マルコ伝ではイエスは「地にひれ伏して」祈られるが、ここでは「膝まづいて」祈られる。
 40節、弟子たち(ここでは11使徒のほかの弟子たちも含まれる)へのイエスの教え「誘惑に陥らないように祈っていなさい」は、いよいよ「誘惑の時」が弟子たちに訪れたことをまず示している。それはイエス捕縛の時である。第二に、誘惑に立ち向かうには祈りしかないないことを告げておられる。「誘惑」すなわちイエスとの関わりを彼らのほうから断ち切ること、「誘惑に陥らないためには」弟子たちも捕縛されることが含まれるが弟子たちはどのように行動するか。彼らはイエスと運命を共にし、ユダヤ教当局やビラトによって捕縛され、裁判を受けるのか、そして殉教するのか。それとも。
 42節「父よ、この杯を私から去らせてください。しかし私の意志ではなく、あなたの意志がなりますように」。マルコ14:36では「アバ」というアラム語を翻訳して「父よ」としているが、ここでは「アバ」は省略され単に「父よ」とある。
 「杯」はイエスの苦難を示す運命の表現。イエスはご自分にみまう運命からの離脱を祈っておられる。マルコ14:36では「願い」となっているが、ここでは「意志」。「あなたの意志がなりますように」は明らかに「神の救いの計画の実現」が意味されている。そのためにイエスは「ご自身の意志」を断念され、神の主権に従う、苦難と死の運命を受け入れられると告白されている。
 マルコ伝では祈りにいくイエスが「おびえだし、おののきながらべテロらに言われた『心が滅入って、死にたいくらいだ』」(14:33~34)とある。
 ルカ伝では43~44節がそれに当たる。しかしこの部分は古代教会では多くの者がカットしており、少数の者(エウセビウス、ヒエロニムスら)が採用している。現代ではコンツェルマン、フイッツマイヤーはカットし、塚本訳、レンクシュトルフは採用。
 44節「苦悶の中でイエスは心をこめて祈られた。その汗が血のしたたりのように地に落ちた」。この部分はゲッセマネにおけるイエス祈りが「苦悶に満ちたものであること」を証言している。塚本訳「もだえながら死にものぐるいで祈られた」。ここの「苦悶・アゴニア」という用語は聖書ではここだけ。この用語は試合など勝つために闘争すること、またある切迫した経験のゆえに恐れや苦痛と結びついた心の状態をしめす言葉、フィッツマイヤ一。パスカルもイエスの苦難について「最後の苦悶」と表現した。
 「イエスのこの苦悶が神のみ手にあったこと」は「天からのみ使い」への言及から明らかである、43節(み使いの出現はルカのみ)。み使いは「神のみ使い」であるから。イエスご自身の「苦悶」は、神の意志に従って、苦難と死におもむくことは「神のみ使いの力づけ」なしになしえないことを示している。
 この関連でへブル5:7~8を取り上げたい「キリストもその肉の生活の時に、激しい叫びと涙をもって、ご自分を死の力から救うことのできるお方に、祈願と嘆願とをささげられた。しかしその《不安》によってその嘆願は聞き届けられ《なかった》。そしてキリストは、御子であったにもかかわらず、ご自分の苦難に基づいて信頼(服従)を学ばれたのだ」(ハルナックによる訳、ブルトマンが採用)。
 この43~44とへブル5:7とは特にゲッセマネにおける「人間的不安」が強調されている(ミヘルの注解)。
 イエスの勧告「祈っておれ」にもかかわらず、弟子たちはその勧告を心にとめることなく、眠ってしまった、45節。「イエスは人間の側から仲間と慰めとを求められる。このようなことは彼の一生でただ一度であったと思う。だが彼はそれを得ることができない。弟子たちが眠っているからである」「イエスは世の終りまで苦悶されるであろう。その間われわれは眠ってはならない」(パスカル「パンセ」553)。
 「起きて祈っている」ことのできなかった弟子たちに真の「誘惑」が訪れる。