建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

捕縛1 ユダの裏切り  ルカ22:47~53

1999-35(1999/9/19)

捕縛1 ユダの裏切り  ルカ22:47~53

 「イエスがなおも話しておられる時に、突然群衆が現われた。十二弟子の一人、ユダという名の者が先頭にいた。彼はイエスに接吻しようとして近寄ってきた。イエスは彼に言われた『ユダよ、接吻で人の子を売るのか』。イエスの回りにいた者たちは何が起ころうとしているかに気づいて言った『主よ、剣で切りつけましょうか』。彼らの一人が大祭司の召使に斬りつけて、右の耳「を切り落とした。イエスは言われた『もうそれでよろしい』その者の耳に触って癒された。それからイエスはやって来ていた祭司長たち、神殿守衛長と長老らに言われた『強盗に立ち向かうかのように、剣や棍棒を持ってやって来たのか。私が毎日あなたがたと一緒に神殿にいた時には私に手をくださかった。しかし今はあなたがたの時(天下)、悪魔の勢力範囲である』」

 平行記事はマルコ14:43~50、マタイ26:47~56、ヨハネ18:3以下。
 最後の晩餐、ゲッセマネ祈りを受難物語の序曲とすれば、イエスの捕縛から真の受難が始まる。イエスの捕縛の手引きをしたは、弟子の一人、イスカリオテのユダである。
 そもそもこの22:3~6にはユダについてしるされている「その時サタンがイスカリオテと呼ばれるユダに入った。ユダは出かけていって、祭司長たち、神殿の守衛長たちとイエスを売る方法について話しあった。彼らは喜んで金をやることに話を決めた。ユダは承認し、群衆の目を盗んで祭司長らにイエスを引き渡す機会をねらっていた」。
 イエスリオテのユダがなぜイエスを裏切ったかは、マタイ26:14「いくらくれますか。あの男をあなたがたに売ってもいいが」からは、ユダが金銭欲の強い人物だとわかるが、それがイエスを裏切る原因とは思われない。
 ヨハネ12:1以下にべタニアのマリアがナルドの香油をイエスの足や髪に塗った時のユダの反応がしるされている。5~6節「なぜこの香油を3百デナリで売って貧乏な人に施さないのか。ユダがこう言ったのは、(会計係であった)彼は泥棒で、預かっている金箱の中に入るものをごまかしていたからであった」。
 これについてカール・バルトはこう解釈している「ここで外面的に示されているユダのふるまいも彼の本質と働きを指し示している。彼は使徒であるに違いないが、自分や他人がイエスに献身するのを結局『しなければよかったこと思っている』。このような献身の力は自分なりに判断した、もっとましなことに使えばよかったと考えている。彼にとってイエスなどは自分の考えた善行に比べれば、結局とるにたらぬものでしかなかった。…イエスに従っていくことは、彼にとっては本来の目的ではなく、自分にもまだはっきりしていない、《何かの目的》の手段であった。《イエスへの関係をなおざりにするというこの自由こそ》彼が根本的に考え意図していたものである」。
 バルトはユダの出自について言及していないが、「イスカリオテ」はどこであるかは論議されていて、はっきり定着できない。ユダヤの「カリオテ、ケリオテ出身の」という解釈があるがどこか不明。ユダはイスカリオテのシモンの子(ヨハネ6:71)。ユダの最後については、マタイ27:3以下、行伝1:18以下。
 とにかく「イスカリオテ」の有力な読み方には「スカリオーテス」(ルカ6:16、ヨハネ13:2)、すなわちシカリウス・刺客・暗殺者というのがある。もしそうであるとすれば、このシカリ・刺客は前50年ころハスモニア家の王位争いに登場した短刀(シカリウス)で政敵を暗殺する刺客集団を指しており、ユダはその集団の末裔の一員であったことになる。イエスの時代では「熱心党」に当たる。マタイ10:4、26:14、マルコ14:10。確かにイエスの12弟子のうちには熱心党のシモン、さらにべテロ(後述)など政治結社に属す者がいた。ユダもまたシカリであったとすれば、ユダはイエスの活動の中に「ローマ帝国と武闘してユダヤを解放する政治的メシアを期待していた」としても不思議ではない。いかなる理由であるかともかく、おそらく納税問題と反律法主義的行動、取税人や罪人との会食、支配思考の否定、剣の否定など《熱心党的スローガンと対立するイエスの行動のゆえにユダはイエスに失望したのであろう》。
 リューティは、ユダがイエスにいだいたメシア希望をイエスが実現しなかったから裏切ったと解釈する。クラウスナーは、ユダがイエスを危険な誘惑者とみなして、イエスを偽教師とみて引き渡すべきと考えた(申命13章)という。
 クルマンは「イエスは熱心党員をひどく失望させ、この失望がユダの裏切りの一つの現となった」という。ユダの裏切りについてのバルトの非政治的解釈よりもこのような政治的解釈のほうが説得力がある。イエスの十字架の隣りに熱心党員の十字架があったことも示唆的である。ルカ22:3にある「サタンがユダに入った」は、ユダにイエスを裏切る力を与えたのは、サタンの力が働いていたことを示す。しかしサタンはイエスが十字架につくことにあらゆる妨害をするはずであるが、ここでは十字架の死にゴーサインを出している印象を受ける。