建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ピラトの審問1  ルカ23:1~5

1999-38(1999/10/24)

ピラトの審問1  ルカ23:1~5

 「そこで法院全体が立ち上がってイエスをピラトのものとに引いていった。彼らはイエスを告発する訴訟を起こした。『この男はわが国民を惑わし、カイザルへの納税を妨害し自分をメシアなる王だと要求しているのがわかりました』。そこでピラトはイエスに質間した『おまえはユダヤ人の王なのか』。イエスは答えられた『そう言っているのはあなたがただ』。そこでピラトは祭司長と群衆に言った『この男には死罪にあたるものは何も見出せない』。しかし彼らは主張し続けた『この男はその教えもって、ガリラヤから始めてこの場所にいたるまでユダヤ国中でわが民を煽動してきました』。
 ビラトはこれを聞くと、この人はガリラヤ人かどうかをたずねた。イエスがへロデの領地の出身と知ると、イエスをヘロデでのもとに送り届けた。ヘロデもそのころエルサレムにきていた」。
 ピラトへの引渡し。サンヘドリンはイエスに死刑判決を下すと、ローマ総督ピラトのもとにイエスを引いていった、1節。なぜか。サンヘドリンはユダヤの法によって死刑判決を出すことはできたが、しかし死刑に処する権限はなかった。ヨハネ18:31「私たちには人を死刑に処す権限はありません」。他方、ユダヤ教は民事(宗教に関連したもの)ばかりでなく刑事事件の裁判権ももっていた。行伝8:3などのキリスト者迫害。パウロへの鞭打ち刑、第二コリ11:24。しかしながらピラトへの告発の内容は、ユダヤ教の法律で裁判する案件の場合は問題外であった、ヨハネ18:31前半。ピラトは取り上げないのだ。
 総督ピラトが取り上げる告発は限定されていた。審間の尺度はむろんローマ法であってユダヤ教が判決を下した瀆神罪は問題にならなかった。ピラトが取り上げる案件は「大逆罪」すなわち反乱罪の嫌疑の案件のみであった。瀆神罪での有罪判決の執行を要求して承認させる場合も、ピラトはローマ法に基づく審問を「新たにしなおした」。瀆神罪の自動的な承認はしなかったのだ。
 2節における告発の内容をマルコ14章のカヤパの審問と比べると、2節の告発内容ががらりと変わって、「政治的なもの」となっているのがわかる。
 「国民をまどわす」2節は、民衆暴動への煽動。告発の理由の第一が、この民衆暴動への編動。第二にローマへの「納税の妨害・拒否」。これは熱心党の反ローマ行動のスローガンであったが、これは十分反逆罪に相当する。紀元前6年ころからユダヤでは何回か、納税拒否と人口調査への妨害の暴動(ガリラヤのユダ、チューダ、行伝5:36以下)は起きていた。大逆罪は、通常国民を煽動して謀反と騒乱をしかける者への刑罰で、その者の身分によって、十字架か、猛獣に投げ与えるか、島流しかであった。ヘロデ大王の死後ユダヤで起きた騒乱ではシリアの副司令官ヴァルスによって二千人のユダヤ人が十字架にかけられた、プリンツラ一。しかし納税問答、20:20以下に照らすと、イエスへのこの告発はデッチあげである。
 第三は「自分をメシアなる王と要求している」これがピラトの審問の中心ポイント。
 メシアは元来神によって膏(あぶら)を注がれた者に対する呼び名である。この受膏者には、大祭司(レビ4:3)、ダビデ(サムエル下5:3)、異国の王クロス(イザヤ45:1)、預言者の第二イザヤ(61:1)などがいた、すなわち「メシア」というだけでは「政治的な王」も入るが、大祭司や預言者などすぐれて宗教的な指導者も含まれるのでメシア即政治的王とはかぎらない。
 ルカ23:2「この男は自分をメシアなる王だと要求しているのが私たちにはわかりました」とのサンヘドリンの告発は「メシアなる王」を「メシア・イコール・王」しかも王にアクセントをつけて解釈している。イエスを「王位僭称者」と「歪曲」したのだ。「王」であれば、世俗的な政治的支配者として、ローマ・総督も反乱罪の疑いをもって告発を取り上げる、これがサンヘドリンの企てであった。
 ピラトはずばり反乱罪の疑いありやなしやの審問をイエスにぶっけた「おまえはユダヤ人の王なのか」3節。「ユダヤ人」という表現は、異邦人がイスラエルの人をさす呼び名である(マルコ15:32では「イスラエルの王」)。「ユダヤ人の王」は4福音書が共通してしるした「罪状書き」と一致したもの。イエスの告白された「メシア称号」はこの「ユダヤ人の王」という表現でまったく別の意味、政治的意味のみが突出することになる。
 イエスは答られた「そう言っているのはあなただ」。協会訳「そのとおりである」も塚本訳「ご意見にまかせる」も翻訳がまずい。
 グニルカもピラトの質間にイエスは《肯定した》と解釈している(マタイ27:11「あなたがそう言っている」への注解)。しかし「そのとおりである」という「全面的肯定」であったとしたら、ピラトの審問は即終了して判決を出したであろう、プリンツラー。
 ローマイヤーは(マタイ27:11)について、ピラトの質問に対する「イエスの答はカヤパへの答と同様(マタイ26:64)《この質問に同意することを拒否したこと》を意味している。もしその質問をイエスが肯定したのだとすれば、そのことでイエスの答はローマ帝国の意味で有罪であることを自白したことになろうが、(肯定したのであれば)ではどうやってイエスへの告発がなおも続けられたのだろうか」と注解している。
 この答は否定の返答なのか。すでにサンヘドリンの審問でイエスはメシアだといわば告白された。そのメシア性には宗教的面(大祭司や預言者の意味合い)と同時に政治的王(当時のユダヤ人は政治的王のニュアンスの強い、ダビデ王の再来のようなローマの支配から解放する「政治的メシア」を強く待望していた)という面もあったので、メシア告白でも王という面を全面否定できない。数字でいうのもおかしいが、3分2肯定3分1否定といったもの、「留保つき肯定」プリンツラーであった。
 ピラトはイエスの返事の「あいまいさ」にこだわったのだ。黒ではないが白でもない、いわば灰色。ヨハネ18:36「私の国はこの世のものではない」とのイエスのことばに、ピラトはこの世を超えたもの、非政治的なもの、ローマの支配にとって「危険でないものを感じとった」ようだ。