建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

十字架2  ルカ23:39~46

1999-47(1999/12/26)

十字架2  ルカ23:39~46

 「はりつけにされていた犯罪人の一人がイエスを冒涜した。『おまえがほんとうにメシアなのなら、自分自身を救ってみよ。そして私たちを』。しかしもう一人はたしなめて言った『おまえは神を恐れないのか。結局、おまえはおまえ自身がなしたことに見合う判決をうけている。私たちに対してはそれは正義を表している。私たちは自分のしたことの報いを受けているのだ。しかしこの人は道にはずれたことは何もなされなかったのだ』。それから彼は言った『イエスよ、あなたがみ国と共に到来する時には、私のことを思い出してください』。イエスは彼に応えられた。『アーメン、私はあなたに言う、今日あなたは私と共に、パラダイスにあるであろう』。
 44、すでに昼の12時ころであった。全地が暗闇になりそれが3時まで続いた。45、太陽は光を失っていた。神殿の(至聖所の)幕が真ん中から裂けた。46、イエスは大声で叫ばれた『父よ、あなたのみ手に私の霊を委ねます』こう言って息を引きとられた」

 ここはル力伝の特殊記事。特に46節を取り上げたい。ルカはここで「初代教会の、イエスの死についての別の伝承」に従っているようだ、フィッマイヤ一。これには詩22:2の「あの叫び」は含まれていない。
 44節。ここはマルコ15:33によっている。ルカ伝はイエスの死の時点での二つの異状な現象について述べている。「全地の暗黒」と「神殿の至聖所の幕が二つに裂けたこと」(マタイ27:51では地震が起きたとある)。「全地の暗黒」はヨエル3:3~4、ゼパニヤ1:15などでは「主の日」の宇宙的現象、ここでもイエスの死は終末の出来事とされる、マタイ27:52死人のよみがえり。「神殿の幕の引き裂かれ」は暗示的でイエスの死によって、神と人間を隔てた、至聖所の幕が取り払われて、人間が神の存在に近づくことができるようになったこと(へブル9:8、10:19~20)。異邦人とユダヤ人を隔てる垣根がイエスの死によって取り払われたこと(エペソ2:14以下)、を象徴・意味している。
 46節のイエスの最後の祈り。「父よ、あなたのみ手に私の霊を委ねます」は詩31:5そのままの引用。詩31:6は、ユダヤ教では夕べの祈りとしてとなられた、詩篇では敵からの解放を求める祈りであるが、神への確信を表現している。他方これは自分の死を前にした敬虔なユダヤ教徒祈りで、この者にとって人間は神から与えられた霊をとおして生きる存在である。そして自分の死に臨んで彼は、神からの霊を神に委ねる、死はその者にとって最後のものではなく、神のもとでの生命を期待すると確信しているから。この祈りのタイプはまた殉教者の殉教時の祈りでもある、行伝7:59「主イエスよ、私の霊を受け入れてください」。ここでの「私の霊」は生きているその存在のすべて、生命という意味。イエスがこの祈りによって息絶えられた、とすれば、イエスは「敬虔な者の、殉教者の祈り」をもって死にたもうた、すなわち、マルコ、マタイの線、詩22:2の叫びをもって、神から見捨てられて死にたもうたという線と真正面から対立する。また「イエスの死のつまづき性」は相当に減殺される。他方衝撃力はなくなる。