建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの復活と希望 復活の史実性(二)

2000講壇1(2000/1/30~2000/4/9)

エスの復活と希望 復活の史実性(二)

 福音書の復活顕現の記事への評価
 さてイエスの復活についての聖書の記事にはパウロの第一コリント15章などパウロの書簡と全福音書における復活したお方の顕現についての箇所との双方とがある。復活顕現はどのような内容であったのか《復活者の顕現》は、原始キリスト教会に属す人々(マグダラのマリア、ペテロ、クレオパ、パウロなど)によって実際に体験された。したがって後の時期の伝説(聖伝)の形態によってはじめて自由に案出されたものではなく、《史実的に》十分基礎づけられている(パンネンベルク)。この点はいいとして、では福音書の復活顕現の報告もすべて《史実的》だといえるのだろうか。このポイントになると、現代の神学者たちは大いに懐疑的になる。ブルトマン、カール・バルトの立場は前回言及した。パンネンベルクは述べている、
 「一方で、福音書の報告は《その復活顕現の身体具有性(Leibhaftigkeit)》[復活したお方が身体を具えていること]を意図的に強調することで、史実的な吟味に対してはまったく確固とした基盤をもっていない。特にこの点で福音書の報告はパウロと対立している」(パンネンベルク、前掲書)。ここの「復活顕現の身体具有性」を示す箇所として次の箇所がある、
 「何をうろたえているのか。なぜ心に疑いを起こすのか。私の手と足を見なさい。私だ。幽霊には肉も骨もないが、私にはそれがあるのがわかるから」(ルカ24:38~39)。「指をここにもってきて私の手を見なさい。手をもってきて私の脇腹に差し込んでみなさい」(ヨハネ20:27)。
 パンネンベルクはいう「福音書において報告されている復活顕現は、パウロの場合には言及されていないのだが、かなり強く《聖伝的な性格(Iegendaere Charakter)をもっているので、人はそれらの中に史実的な核をほどんと見出しえない》。またパウロの申し立てと一致した福音書の報告は、特に復活顕現の身体具有性を強調する傾向によって、強い聖伝的な着色がなされている」。
 パンネンベルクは、福音書の復活顕現記事が復活したお方が身体をそなえておられること、身体具有性を強調している点を根拠にして、その復活顕現が聖伝的性格をおびている、言い換えると、その顕現の史実性を疑わしいと主張した。その典拠としたのがグラースの「復活日の報告と復活日の歴史」である。グラースは、前掲書88ページではこう述べている、
 「空虚な墓についてについてのすべての物語歴史の根本の関心事は、主の《身体具有的な復活》を証明することにある」「主の復活顕現はリアルな《身体具有的な・leibhafige》現臨を、生き生きした描写で述べている。復活の主は弟子たちと共に旅し、彼らの前で彼らと共に食事をし、自らを触れさせ、手で触らせ、園丁と取違いられ、弟子たちを教化し、指示し、使命の委託をし質問をうけ回答している(行伝1:6~8)」。
 グラースは92ぺージで述べている
 「すべての復活顕現物語の根本モチーフは原始キリスト教がはじめから、この方が真実復活させられたことを宣教した証言である。この根本モチーフはさまざまな個別的モチーフで展開されている。
 《全福音書の復活日物語は、復活の事実性(Realitaet)ばかりでなく、復活の身体具有性を証明しようとしている。この方は幽霊ではなく、むしろ「肉と骨」をもっていた方として顕現した》と、ルカ24:37以下、ヨハネ20:20、マタイ28:9は述べている。空虚な墓の物語は、史実化の興味から語られたのではなく、むしろ復活の身体具有性を強調するために語られた。…」。
 グラース引用続き「<肉の復活>という象徴は全福音書の復活日物語をとおして容易に聖書的に支持される。
では全福音書の復活日物語の多様なモチーフのうちで《聖伝的なものの史実的な核》として何があるのか。
 最初の復活顕現は復活日から時間的にはへだたっていない時にガリラヤ(の湖で)起きたこと、弟子集団はこの復活顕現に関与していたこと、ペテロが集団の中で際立つていたこと、他の弟子たちの前で主を見たことが推定できる。
 この復活顕現から復活日の信仰、主は真実復活されたという信仰が成立した。
 《復活顕現の様式については、報告記事では最早確かなことは何も推定できない》。…
 パウロの復活証言を私たちがもつことがなく一連の確かな事実をパウロに負うことができないとすれば、《全福音書の復活日の報告のもつ聖伝的な性格はこの諸事実自体を疑問のあるものと映る》ことになろう」(「復活日の出来事と復活日の報告」)。グラースは続ける、
 「全福音書の復活日物語は復活の事実ばかりでなく、復活の身体具有性を証明しようとしている。復活した方は幽霊ではなく、肉と骨をもった方として顕現した、ルカ24:37以下、ヨハネ20:20」「全福音書の復活日の報告は聖伝的性格をもっているため、パウロの復活証言がなければ、この諸事実自体を疑問のあるものと思わせる」(グラース、前掲書)
 しかしながら、福音書の復活顕現がせっかく「復活した方の身体性を証明しよう」としているのに、まさしく復活した方のその身体具有性のゆえに、その復活顕現を「聖伝的」と規定して「復活顕現自体を疑う」というは、考えてみればおかしな話である。グラースが主張したように、一方で福音書の「復活顕現の事実の証明」は受け入れて、他方では「復活した方の身体具有性の証明」については疑うというのは、復活顕現の事実の証明すら疑うことになる。
 ここではパウロの復活顕現の把握の仕方だけが「規範」として前提とされる。パウロは「魂の体で時かれ、霊の体によみがえる。魂の体がある以上、霊の体もある」(第一コリ15:44)と述べて、地上的な存在様式を「魂の体・地上的な人間の体・ソーマ・プシュキコン」と呼び(バウアーのレキシコンの翻訳は「地上的人間の体」)復活した存在の存在様式「ソーマ・プニュマティコン・霊の体」と呼んで両者の区別と断絶を主張した。
 この表象を復活顕現のキリストに当てはめて、復活した方が《「霊の体」の存在様式で顕現されてべテロや11弟子、マグダラのマリアクレオパ、パウロらに出会われた》とすると、いったいその復活顕現はどのようなものとして体験されたのか。地上的な存在「魂の体」(マリアや使徒たち)から見たところの「霊の体なる復活のキリスト」とはどのようなものであったのか。
 他方、ルカ24・36以下、ヨハネ20・19以下における復活顕現では、復活した方は「身体をそなえた存在」であることを強調している。
 この矛盾、パウロのいう「霊の体なる復活した方」とルカ、ヨハネのいう「身体をそなえた復活した方」との矛盾を統一する考えがある。それは宗教学でいう「幻視・Vision」という概念である。
 グラースは、復活顕現が「幻視・Vision」と特徴づけられるという。
 「復活顕現の特殊性はそれがもつ機能の特殊性に根拠づけられるのでなく、その顕現自体に基づいている。復活顕現の場合、眼目は《幻視・Vision》)であることを拒否する人々はすべてその特殊性を顕現様式に見い出したいと願っている」(前掲書)。 続