建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの復活と希望 復活の史実性(四)

2000講壇1(2000/1/30~2000/4/9)

エスの復活と希望 復活の史実性(四)

 復活した方の身体性に関していえば、ルカの記事は「体の復活」ではなく「肉(Fleish)の復活」を主張している、とグラースは解釈している。確かに記事こだけ読むと次のヒルシュの立場も正しいかのような印象を受ける。
 「福音書の復活顕現における《復活した方の身体性》は、墓から天的な栄光へとあげられていく途上になる、蘇生させられた体での顕現」のように映る(ヒルシュ「復活物語とキリスト教信仰」)。またヒルシュはこのルカの記事が復活した方の力強い《身体具有性》を表現したものと解釈した。
 これに対して、ミハエリスはここでの復活した方がもっている「肉と骨」は、パウロの「霊の体」と矛盾するものではないと解釈した。
 「『イエスはご自分を生きたものとして示された』(行伝1:3)は、蘇生とは関連しておらず、むしろ復活し高挙された方の《生命》を言っている。…パウロは顕現においてご自分を啓示したキリストを《霊の体》(第一コリ15:44)《変容させられた》(15:43)《天的な》身体性(15:49)《栄光の体》(ピリピ3:21)と特徴づけている。…ルカ24:39の、復活した方の手足の提示、幽霊ではないとの言葉は、復活した方が《ある身体性において顕現した》と把握すべきだ。復活した方の身体性の場合、変容させられた、霊的な身体性を意味して《いない》という根拠はまったく《ない》。ルカ24章の表現《幽霊ではないとの言葉、弟子たちの前での食事》をパウロの《霊的な身体性》と関連づけることは拒否されない。ルカによれば幽霊には肉も骨もなく、復活した方がけして幽霊でないとすれば、復活した方は、パウロの用語でいえば《霊的な(変容させられた、天的な)ソーマ・体》をけしてもたず、むしろ《魂的(地上的な)ソーマ・体》をもっていた、と言っているのでは《ない》。ルカのいう《肉と骨》はパウロが《ソーマ・身体、身体性》という概念で表現したことを表現している。肉と骨への示唆をとおして、このソーマ・体の霊的な性格に異論を唱えているのではなく、むしろソーマ的なもの《身体性》の現実性が証言されているはずである」《ミハエリス「復活した方の顕現」》。
 この解釈に私は感動した。
 復活した方の「身体具有性」を述べたもう一つの箇所はヨハネ20:19~29。
 ここでは復活した方が弟子たちに「その手足を見せる」(ルカ伝)というポイントが大きく二点にわたって展開されている。
 第一に、復活した方が彼らに見せるのはここでは「その手と脇腹」である。またそれを見せるのは復活顕現の本来の目的は「弟子たちを福音宣教へと派遣をする」ためである。このポイントは、全福音書の復活顕現記事に見出される。
 「その日、週の初めの日の夜であった。ユダヤ人を恐れて、弟子たちのいたところの戸は鍵がかけられいたが、イエスが来られて真中に進み出て言われた『平安あれ』。この言葉の後、イエスはご自分の手と脇腹をを彼らに見せられた。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた言われた『平安あれ、父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わす』。この言葉の後イエスは彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けよ。あなたがたが人々の罪を赦してやれば消え、赦してやらなければ赦されずに残る」
 復活した方が「閉められている戸を通って、部屋に入り弟子たちの真中に進み出て」挨拶したという表現は(19節、マタイ伝では復活した方は石が転がされる以前に石でふさいだ墓から外に出たと想定される、カンペンハウゼン「空虚な墓」)、この方が空間的な制限をも乗り超える力をもっている「神的な人物」であることを示している《グラース、シュナッケンブルク「注解」》。
 復活した方の突然の到来と平安あれの挨拶は弟子たちの「ユダヤ人への恐れ」を克服に対して特に重要性をもった(シュナッケンブルク「注解」)。弟子たちは「手と脇腹の傷痕の提示」つまり《復活した方が身体を具有して自分たちの中におられるのを見た》ので「喜んだ」のである。弟子たちはイエスの復活への信仰に到達したのだ。主の復活を信じる方法は「復活顕現を見ないで信じる」(29節)「見て信じる」(弟子たち、20節)「復活顕現した方の体に触れて信じる」(トマス、25節)の三段階があって、弟子たたちは第二段階、トマスは第三段階に属す《グラースは弟子たちも顕現を見た時点ですでに「触ることができた」はずだと解釈した》。
 さらにこの顕現は《弟子たちの派遣》を目的としている「父が私を遣わされたように、私はあなたがたを遣わす」20節。弟子たちの派遣は復活した方による聖霊の授与「聖霊による武装」と結合されている(グラース)。「真理のみ霊はあなたがたを導いてすべての真理を悟らせる」(ヨハネ16:13)。むろんここでの「すべての真理」はイエスに関する真理、み霊は弟子たちの派遣、福音宣教と教会の指導の職務おいて機能する、「父から出てくる真理のみ霊は私(イエス)について証明するであろう」(ヨハネ15:26)。
 弟子たちの福音宣教、教会指導の職務の遂行の中で「機能する」のは、復活した方が「弟子たちと共に働いて、彼らの言葉を強められた」(マルコ16:20)という形ではない。ここではみ霊の授与が、弟子たちの全権的権能「罪の赦し、赦さずに罪を存続させること」を基礎づける、「人の罪はあなたがたが赦してやれば赦されて消え、赦してやらなければ赦されず存続する(20:23、16:8以下の「バラクレートス・助け主」参照)。
 さてヨハネ20章はイエスの復活を疑う弟子たちの一人、実証主義の権化のようなトマスにスポットを当てている(イエスの復活に対する「弟子たちの疑い」のポイントは福音書の顕現記事全体にわたってしるされている、後述)。
 「12の1人、双子とよばれたトマスはイエスが来られた時、弟子たちと一緒にいなかった。他の弟子たちが『私たちは主に出会った』と言うと、トマスは反論して言った『私は主の手の釘の傷跡を見なければ、私の指をその釘の場所に、手をその脇腹に差し込まなければ信じない』。
 8日の後、弟子たちはまた家の中にいた。トマスも彼らと一緒であった。イエスは鍵のしまった戸から入ってきて、彼らの真中に進み出て言われた『平安あれ』。それからトマスに言われた『あなたの指をここにおいて私の手(の傷跡)を見なさい。手を脇腹(の槍傷)に差し込んでみなさい。不信仰にならないで、信じるようになりなさい』。トマスはイエスに答えて言った『わが主よ、わが神よ』。イエスは言われた『あなたは私を見たので信じるのか。幸いなるかな、見ることなくしかも信じる人たち』」
 他の弟子たちは復活の主に触れることなく、主の復活を信じた。しかしトマスは「主の手と脇腹との傷痕に触れること」がないならば、イエスの復活を納得できないと言い切った、25節。「手の釘の傷痕」「脇腹(の槍の傷痕)」はヨハネだけ。19:34によれば、イエスの死の確認はローマ兵がイエスの「脇腹を突くこと」でなされた。この「手の釘の傷痕と脇腹の槍の傷痕」は、復活した方はほかでもなくあの十字架で処刑された方と「同一の方である」いわゆる「同一性のモチーフ」である(ミハエリス、ブルトマン「注解」、ヴィルケンス、シュナッケンブルク「注解」)。 続