建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ペテロへの顕現2  ヨハネ21:8~15

2000-13(2000/4/23)

ペテロへの顕現2  ヨハネ21:8~15

 「他の弟子たちは舟で(陸に)やってきた。彼らは陸からあまり遠くない200ぺキュス(97メートル)のところにいたが、魚の入った網を引いてきた。陸にきた時、岸辺に炭火の上に魚がのせてあり、パンもあるのを彼らは見た。イエスは彼らに言われた『あなたがたがいま取った魚を持つてきなさい』。シモン・べテロが舟にあがって網を陸に引き上げた。網は153匹の大きな魚でいっぱいだった。そんなに多かったが、網は裂けなかった。イエスは彼らに言われた『さあ、 食事をしなさい』。弟子たちの誰もイエスに『あなたはどなたですか』と質問しなかった。それは主であることを彼らは知つていたからだ。イエスはきて、パンをとり、彼らに与えられた。魚も同じようにされた。かくてイエスが死人の中から復活した後、ご自身を現されたのはこれで三度目であった。
 彼らが食事を終えたとき、イエスはシモン・べテロに言われた『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に私を愛するか』。彼は答えた『はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた『私の羊の番をしなさい』」シュナッケンブルク訳。
 6節、奇跡的な大漁自体は、明らかに復活した方の委託で起きた《伝道》を象徴している。漁の獲物・魚の量は伝道の成果を表す。たくさんの魚でも裂けない網は《教会がたくさんの人間をも受け入れることができること》を暗示している。あるいは裂けることのない《教会の一致》を象徴している(ブルトマン注解)。
 153の魚の数は確かに象徴的な意味をもつ、すなわち「使徒的な説教によって信仰をもつに至った信仰者を象徴している」(人間をとる漁師の比喩、マルコ1:17、ブルトマン)。ヒエロニムスは古代の動物学魚類の数が153だといった。アウグスティヌスは1から17(行伝2:7以下の諸国民の数)までを足すと153だ、50を3倍すると150、3は三位一体の象徴といった。またアレキサンドリアのキリルは、100は異邦人の数、50はイスラエルの残りの者、3は三位一体を示すという(ブルトマン、シュナッケンブルクの注解)。
 他方、奇跡的な大漁は復活されたイエスの絶大な力を示すものであり、これが愛弟子がその方がイエスであることを認知したきっかけとなっている。
 ペテロが演じている特別の役割、11節は、伝道と教会における彼の「特別の位置づけ」を示している。しかしこの優位性が制限されるのは、主を認知した最初の人がペテロでなく、愛弟子である点である。ペテロと並んで愛弟子の評価が下がる傾向は、ヨハネ伝全体をとおして一貫しており、21:15以下でもう一度特に際立っている。二人の弟子のこの競合関係は、より後の教会的な関係を反映していると推定してさしつかえない。
 漁の物語りにおいて、伝道のモチーフと聖餐式の場合の、教会の儀式・聖餐式における復活の主の臨在した「神秘的な食事」(ブルトマン)のモチーフがきわだっている。9、11節。またこの食事が始まると、奇跡的な大漁によって見知らぬ方をイエスだと認知した弟子たちの「恐れ」が述べられる、12節。復活した方に対するこの「恐れ」については、他にマルコ16:8「彼女らは恐ろしかったからだ」。ここではその方はイエスであると弟子たちに認知されているのでイエスに問いただす者はいなかった。
 「その方は主である。しかも主ではない。その方は彼らがこれまで知つていた主ではない。しかもその方は主である。イエスと弟子たちの間には本来的な隔てがたてられている。この隔てはイエスがパンと魚を彼らに渡されることで取り除かれた。イエスが復活した方としてご自身では食事をとられなかったとすれば(エレミアスは食事をとったと解釈しているという、ルカ24:43では「食事をとられた」とある。行伝10:41参照)。今や復活した方と弟子たちとの間に食卓の交わりが構築されたことを意味するからだ。しかしその食事は、満腹の食事ではなく、むしろ神秘的な、祭儀的性格をもつ、すなわち主の晩餐の比喩である」ブルトマン注解。
 (1)この復活祭物語においてペテロはきわだっているが、受難物語におけるペテロのイエス否認とエルサレム逃亡をふまえると、ペテロの働哭はしるされても、罪の告白についてはしるされていない。ルカ5:8後半「主よ、私から離れてください。私は罪深い人ですから」にあるペテロの罪の告白と再び受け入れられ召命をうけたことが含まれていたとの推定を妨げになるものはない(グラース)。とにかくルカ5章のペテロの罪の告白は召命物語よりも復活祭物語によく適合する。
 (2)食卓の交わり。ルカ24:43では、顕現されたイエスは弟子たちの前で食事をとられた、とある。この食事はイエスの「復活の身体性」を強調するためのものである。行伝10:41も「復活された後に、私たちはイエスと共に飲食した」とある。ここでは復活した方は「飲食されない」(ブルトマン)。すなわちイースターにおける主との食卓の交わりは、主は飲食をなされないが、その愛餐、聖餐の場に主は臨在されるのだ。その主は復活された方として、かつての主ではないが、しかも主である。この点をブルトマンの解釈はよく把握している。
 (3)15~18節は復活顕現の物語の中で最も美しい箇所。ペテロに焦点が当てられている。ここでイエスは三度ペテロに他の弟子たちがイエスを愛する以上にイエスを愛するか、と質問なさる。
 多くの注解者はこの「三度の問いかけ」にイエスを三度否認したペテロの立ち直り・回復を指しているとみなし、ペテロによるイエス否認への懺悔が語られていた、と解釈されるが、これは方向を誤ったものだ、イエスの言葉にはペテロへの赦しは語られていないからだ。ブルトマンの注解。
 イエスは他の弟子たちのイエスへの愛よりもペテロがイエスを愛するかと質問されたのに、ペテロの答は「他の弟子よりも愛する」の判断をぬきにして、ただイエスを愛する事実のみを誓っている。ペテロの答に対して、イエスは言われた「私の羊の番をしなさい」すなわち教会の指導の委託をされた、15節。他方ここには真の意味での復活顕現がある。ペテロに教会指導の任務が託されたからだ。これはむろん教会におけるペテロの人間的な権威を高めるものではなかった。むしろ徹底的なイエスへの服従を要求する厳しい職務の委託であった。マタイ16:17~19、ルカ22:23。
 他方この教会指導の委託は、世界伝道への委託(マタイ28:19、ルカ24:47以下、行伝1:7以下)とは別のもので、あくまでも教会指導の委託である点は、注目すべきだ。この点にこの箇所の復活顕現の特殊性、さらにはペテロへの委託の特殊性がある。