建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

復活と希望  パウロの復活理解1

2000講壇2(2000/4/16~2000/7/30)

復活と希望  パウロの復活理解(一)

 第一コリント15:1~10のパウロの復活証言は、新約聖書の最古の信頼しうる復活報告である、グラース。この書簡は後56~57年に成立し、自ら復活顕現に出会った人が書いたもので福音書の復活記事よりも早く成立した。
 15:1~10「私は主要な事柄としてあなたがたに伝承したのは、私もまた引き継いだものであったからだ。すなわち
 聖書にしたがえば、キリストが私たちの罪のために死んだこと、そして埋葬されたこと、
 聖書にしたがえば、キリストが三日目によみがえったこと、
 そして彼がケパに、さらに12人にも現われたこと である。
 さらにキリストは500人以上の兄弟に同時に現われた。彼らのうち、数人が眠ったが
 その大部分は今なお生きている。
 さらにキリストはヤコブに、そしてすべての使徒にも現われたもうた。
 最後に、月足らず同然の私にも現われたもうた。私は使徒たちの中で最も小さい者で
 使徒と呼ばれる価値がない。神の教会を迫害したからだ。しかし神の恵みをとおして
 私は今の私である。そして私に対する神の恵みは無駄にはならず、むしろ私は彼ら
 すべてよりも多く働いてきた。しかし私ではなく、むしろ私と共にある神の恵みが
 そうしたのだ」コンツェルマン訳。
 まずパウロが引き継いだ「原始教会の復活伝承の内容はどのようなものであったか」。
 15:3でパウロは自分が受けた、定形的伝承について示唆している「(引き継いだ(伝承):(伝承を)引き渡す」という用語。
 パウロが受けた伝承が三節以下の何節までなのかは実は論争があっていまだ決着がっいていない。その場合古いケリグマ(宣教)的定形の伝承の「本来の原文」がどのようなものであったか。パウロが自分に与えられた顕現について述べた8節が、その伝承に含まれていなかったのは確実である。また彼は500人の兄弟への顕現について「そのうち大部分の人は今なお生きているが、ほんの数人が眠りについた」(6節)と述べている。500人の言及が(彼の受けた)定形に属していたかどうかも疑わしい。さらに6節には文章構造に断絶が認められるので、5節までは原文のホティの文(「…したこと」)に含まれる。そこでパウロが引き継いだケリグマ伝承は「ケパへの顕現と12人への顕現だけであるというハルナックの見解」は今日一般に受け入れられている。
 3節後半~5節は、パウロによって定形化されたものではなく、本来アラム語で定形化されたものだ。エレミアスによれば本来こうであった「聖書によれば、キリストは私たちの罪のために死に、葬られ、聖書によれば、3日目によみがえらされ、そしてケパによって、さらに12人によって見られた」(グラース)。
 これに対してヴィルケンスは別の解釈を主張した。3節後半~5節において「キリストが私たちの罪のために死んだ《こと/ホティ》、《そして》埋葬された《こと/カイ・ホティ》、《そして》復活させられた《こと/カイ・ホティ》、《そして》ケパに顕現された《こと/カイ・ホティ》」とあるが、ヴィルケンスはこの「カイ・ホティ、そして…したこと」における「ホティ」は、伝承本文にはない用語であり(「行伝の伝道演説」、コンツェルマン注解)、またここにある「カイ・ホティ」の用語でそれぞれの文を結合する仕方は、従来完結した伝承定形の内部にあるものではなく(伝承定形から独立して、しかも定形にある証人たちをパウロは自由に列挙した)と解釈する(「復活した方の顕現伝承の起源」)。この解釈のほうが、3~5節を完結した定形とみるハルナック説よりも、6~7節とのつながりがいい。

 

復活と希望  パウロの復活理解(二)

 さて次に「この伝承をどのような状況でパウロは引き継いだのかの問題」。パウロはその状況と関連あるポイントをこう述べている、
 ガラ1:18以下「私は激しく神の教会を迫害し、それを粉砕しようとした。しかし私を母の胎以来選びたもうて、自らの恵みによって気が向いた時、神はみ子を私のうちに示された。そこで血肉の者にも相談せずに、すぐさまエルサレムに上って先輩の使徒たち訪ねることもせず、すぐさまアラビアへ出かけ、またダマスコに帰った。それから3年後に上って、ケパを訪ね彼のもとに15日間滞在した。しかし使徒のうち他の人々には、主の兄弟ヤコブのほかには会わなかった」。
 これによればパウロは回心の3年後、エルサレムに滞在して、すべての使徒と教会全体と知り合いになることはなかったが、ペテロとヤコブを訪問した(行伝9:26~30)。その際、主の復活について語られなかったとは、また彼らがそれを知らなかったとは、考えられない。当時パウロはコリント教会に伝えた復活証言つまり6、7節の内容を知ったのであろう。
 彼がケパと並んで名をあげた唯一の人ヤコブが際立っている。これに対して使徒ヨハネは14年後エルサレム訪問の際、知り合いになったが(ガラ2:1、9)、復活顕現にはその名があげられていない。
 《おそらくパウロはケリグマ的な定形をべテロと12人への顕現、したがって3後半~5節を、回心後ただちにだダマスコの教団から受け取ったのだ》とグラースはみている。彼がべテロと知合う以前に、回心直後ただちにダマスコとアラビアで伝道活動を始めていた。グラースはまたこう解釈している「パウロは3~5節を聖なる定形として確立し自分の定形化した報知によって補填したのではない」(これは先のヴイルケンスの解釈とは対立する)。「パウロエルサレムでの個人的な訪問の際に知ったことの一部を、後になってアンテオケで引き渡されたケリグマ的な定形によって補填したということはありそうにない」と。
 イエスの死は後30年、パウロの回心は一般には33、34年とみなされている(ボルンカム「パウロ」)。彼は回心後ただちにケリグマ的定形を引き継いだのであるから《イエスの死後5年以内にそれを手に入れた》ことになる。回心の3年後のエルサレム訪問の際、ペテロとヤコブからその定形を受けたという推定といちおう合致する。したがって私たちはパウロの復活証言をもってその出来事にまったく近寄っていることになる。これによって復活宣教における歴史的な叙述は最高度に確実である。
 パウロは一連の証人を年代記的に列挙しようとしている。ハルナックはかつて次のテーゼを提起した、パウロはその証人の報告で二つの定形を関連づけ、一つはペテロと5節の12人への顕現、もう一つはヤコブと7節のすべての使徒へのそれを報告したと。実際、12人への顕現はすべての使徒へのそれと同一だと。一方の全体的な顕現に先行するペテロについての個人的な顕現、他方のヤコブの顕現は原始教会における二つの党派の衝突を明らかにしている、顕現の優先はその党派の指導者を述べている、しかし原始教会においてペテロとヤコブとに緊張があったとはここではふれられていない。
 ガラ2:12「ケパはヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と食事を共にしていたが、彼らが来ると割礼ある人々を恐れて引き下がっていった」によれば、ペテロが異邦人との食卓の交わりを断った理由は、ヤコブの人々のせいである。後48年のエルサレム会議の時期には、ヤコブエルサレム教会の指導の点でペテロより上にランクづけられている「柱と思われているヤコブとケパとヨハネは私とバルナバに協力の握手をした」(ガラ2:9)  続