建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

羊飼いたちの讚美  ルカ2:15~20

1999-46(1999/12/19)

羊飼いたちの讚美  ルカ2:15~20

 「み使いたちが彼らを離れて天に去ると、羊飼いたちは互いに言った、『さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったこの出来事が、どのように起こったかを見てこよう』。そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼い葉桶に寝ているみどり児を探し出した。彼らはそれを見た時、このみどり児について告げられた言葉を人々に伝えた。聞く者すべては、羊飼いたちによって語られたことを不思議に思った。しかしマリアはこのことをみな胸に秘めて、一人でじっと考えていた。羊飼いたちは、聞いたり見たりしたことがすべてみ使いの話のとおりであったので、神を崇め讀美しながら引き返した」

 15~16節。み使いのお告げを「主が知らせてくださった出来事」として羊飼いらは受けとめた。彼らがいたのは町はずれの「羊飼いの野」であったらしい。「さあべツレヘムへ行って…」「彼らは急いで行って…」には、彼らが体験している「喜び」を示している、賛美歌111。彼らがどのようにしてその「出来事」を探し出したかはしるされていないが、彼らがめやすとしたのは「メシアのしるし」すなわち「飼い葉桶のみどり児」であったはずだ、2:12。神の約束のしるしは、飼い葉桶のみどり児についてのみ使いのお告げどおりに発見された、16節。同時に「ダヴィデの町にダビデの血統に属す救い主の誕生」という預言者的な約束の成就が確証された。羊飼いらが見い出した三人の順番はマリア、ヨセフ、幼子の順で、ヨセフの存在がかすんでいる。ルカ伝誕生記事はあくまでマリア中心である。他方、マタイ伝の誕生記事ではヨセフが中心で「ヨセフの父性」はイエスへの「命名」において一段と強調されている。
 18節。羊飼いの話を「聞いた者すべて」「人々」は、その家畜小屋にいあわせた人々のこと。そして、羊飼いたちの伝えた、みどり児についての神的使信は、マリア、ヨセフさらに人々に「不思議な思い」を起こさせた。
 「不思議に思う」は、ここの他に(1:21、1:63)、2:33で、シメオンによるイエスについての讚歌に対して、マリアとヨセフが。4:22、20:22ではイエスの言葉に。さらに24:12では「空虚な墓に対して」ペテロが。人間の経験、知恵、理性によっては把握できない出来事の生起に対する人間の反応である。いずれにせよ、イエスについて羊飼いが伝えた御子についての神的使信に対して、マリアもヨセフも「不思議に思った」。しかし神的な顕現との出会いにみられる、ヌーメソ的畏怖感情「恐れ」、1:65、2:9がここにはみられない。
 19節「しかし、マリアはこれらの言葉(事、出来事)すべてを胸にしまって、心の中でじっと考えていた」。母マリアの存在はここでも夫ヨセフよりも突出している。マリアへのお告げ(1:26以下)、マリアの讚歌(1:46以下)と同様に。羊飼い、居合わせた人々とは異なった反応をしたのが、マリアである。マリアはこの出来事を「胸にしまって、じっと考えていた」1:66参照。
 「胸にしまう=スンテーレオー」は、秘密にする、隠す、胸にしまう、の意味。「じっと考える=スムバロー」は、熟慮する、じっと考える、の意味。マリアにおいては、これらの出来事はみ使いのお告げ、マリアの讚歌から始まっている。彼女にとって、羊飼いの知らせも他の人とは違った意味で「不思議なこと」であった。み使いのお告げは、すべて彼女において実現したからだ。「羊飼いの物語全体は、イエスの母マリアにとって信仰を確立する一つの手立てとなっている」(レンクシュトルフ)。ヨハネ19・25には十字架のそばにいた女性たちの中に母マリアもいたという。行伝1:14には、マリアは原始教団の中心メンバーの一人とある。マリアの「胸にしまう」行為はーー創世37:11のヨセフの夢(父ヤコブやヨセフの兄弟たちがヨセフを拝む)を知つて「父ヤコブはこの言葉を心にしまった」と関連する。夢の内容はヨセフの、エジプトでの将来における宰相の地位と彼を拝む家族の姿を予見したがそのことについて父のヤコブは何かを感じ、それが見える形をとるまで「心にしまった」。それと同じように、ここでの、すべての出来事に対するマリアの「胸にしまう」「心の中でじっと考える」行為は将来、イエスにおいて起こる事柄が見える形をとるまで、マリアにおいて秘密として隠される。ヨハネについて言われた「この児はいったいどんな者になるだろう」(1:66)を、マリアは、みどり児イエスに対して抱いたであろう。
 救い主の誕生においては、ヨセフにもマリアにも「大きなつまずき」を与えた、ヨセフには「身におぼえのない許婚の妊娠」であり、マリアにとっては「性的な関係ぬきの子の誕生」というつまずきであった。ヨセフは夢でのお告げで「聖霊による妊娠」をつげられて、つまづきを乗り越えた。マリアはこのつまずきを「神には不可能なことはまったくありません」とのみ使いの言葉(1:37)によって克服した。子を産めない年配のエリザベツの妊娠(1:36)がマリアを力づけ、神に服従した「お言葉どうりになりますように」(1:37)。神の介入に対する正しい受けとめ方を二人ともしたのである。
 20節「そして羊飼いたちは、彼らが見聞きしたことすべてが、自分たちに言われたとおりであったので、神に栄光を帰し、神を賛美しつつ帰っていった」。
 ここでの羊飼いたちは、神のお告げを聞いた証人であるばかりでなく、みどり児の目撃証人ともなった。「神に栄光を帰す」は「神を崇める」とも訳せる。14節の「いと高きところでは、神に栄光を帰すこと、地の上では、み心にかなう人々に平安」がここでは、ふまえられている。14節との違いは、羊飼いが神に栄光を帰すことが、この箇所では、「地上での」救い主の到来が確認されて、起こったこと、また、神に栄光を帰す行為も「いと高きところでは」でなく、この「地の上で」羊飼いたちによってなされたことにある。そしてこの羊飼いの行為、神に栄光を帰すこと、神を賛美することが、どのようにして救い主の誕生を祝うかを私たちに教えている。それは「神に栄光を帰す」、人間の功績や業績に依拠することなく、神の恵みに依り頼み「ソリ・デオ・グローリア・ただ神にのみ栄光あれ」(宗教改革のスローガン)を人生の根本にすえることを教えている。