建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

後期ユダヤ教における「死人の復活」

2000講壇2-2(2000/6/4~2000/6/18)

後期ユダヤ教における「死人の復活」(一)
 旧約聖書、後期ユダヤ教における死人の復活について取り上げたい。パウロは「もし死人の復活がまったくないとしたら、キリストもよみがえらされたのではない。…もし死人らがよみがえらされないとしたら、キリストもよがえらされないのだ。しかしキリストは眠りについた者[死者]の初穂として、死人からよみがえらされた」と述べて(第一コリ15:13、16、20)両者の密接な関連を明らかにした。したがって「キリストの復活」について論議する場合、片方の「死人の復活」という表象の宗教的歴史的背景と文脈とをふまえることは不可欠となる(以下は特にパンネンベルク「キリスト論要綱」の「死人のよみがえり」、ヴィルケンス「復活」の「ユダヤ教における死人の復活」の各章に依拠した)。
 旧約聖書ユダヤ教における死人の復活について三つのポイントにふれたい。
 第一に、死人の普遍的復活。ダニエル12章この文書は旧約聖書にあるが、前160年ころ成立したので時期的には後期ユダヤ教に属す。
 「その時、あなたの民を支配しているミカエルが先頭に立つ。そして国ができて以来かってないような患難の時があるだろう。しかしこの時に、書にしるされているあなたの民はみなこれを脱するであろう。また地の中に眠っている者のうち多くの者は生き返り、永遠の生命に至る者もあり、恥辱と永劫の罰に至る者もあるだろう」(ダニエル12:1~2、ポルテウス訳「多くの者」はすべての者を意味する)。
 「地の中に眠っている者の多くの者は生き返るであろう」とあるように、ここでは終末時におけるすべての死者の復活「死者の普遍的な復活」が述べられている。しかしながら復活した者らを待ちかまえているのは、神による最後の審判であって、永遠の生命に至ることができるか、それとも永劫の罰を受ける運命にあるか、自分がどちらにいくか決して明らかではない。この復活は、いわば「最後の審判への復活」である。

後期ユダヤ教の死人の復活(二)
 「義ならざる人々にとっては、死者の普遍的な復活はむしろ恐怖の表現である。彼らにとっては死んだままのほうがよいのだ。しかし義人にとってはそれは(不確かな希望)である。何人も自分が義なる者であるとは確信をもって言うことができないからだ」(モルトマン「十字架につけられた神」)。
 第二に、「義人のみの復活」イザヤ26章ここはイザヤ黙示禄と呼ばれる箇所に属し、後期ユダヤ教の時期にイザヤ書に付加されたもので、次のような神への希望がしるされている。
 「あなたの死者らは生き、復活するであろう(Auferstehen)。ちりに住む者らは、覚めて歓呼するであろう。あなたの露は光の露であって、地は暗闇にある者たち[死人]を生まれ変えさせるからだ」(イザヤ26:19、訳はヴイルケンスの「復活」による)。
 ここでは「神に依り頼み」(4節)「神を待ち望む」(8節)神の民は敵によって圧迫され苦しめられている。彼らを苦しめる敵はここではすでに救われがたい「死者」とみなされた、「死者は再び生きることはない。亡霊は生き返らない。それゆえあなたは彼らを罰して滅ぼし彼らの記憶をことごとく消し去られた」(14節)。苦しむ民は「主よ、悩みの時私たちはあなたを求めた。あなたのこらしめにあい、苦しみのあまり私たちは叫んだ」と告白した(16節)。地上における不当な苦しみに対する神の正しい裁定・審判への希求とそれに対応する神の側からの回答、すなわち神義論のテーマがここでは登場している。「神の審判が地に現われる時、地に住む者らは義を学ぶ」(9節)。権力によって不当に侵害された人々の権利や名誉は後になって「名誉回復」よって実現するが、「死後の名誉回復」によっては回復できないその人の生命・死への償いはどうなるのかという問題が未解決のままだ。旧ソ連のポリス・パステルナークらの「名誉回復」などはその典型的な例だ。人間の存在と行為にたいする裁定は、その者の生前の時期や死によってはいまだ決着がつかない。それは死後における神による最終的な判決を待たなくてはならない。これは死人の復活のテーマと関連する。
 イザヤ26章の死人の復活のテーマ「あなたの死者らは復活するであろう」は本来神義論への回答である(ヴィルケンス「復活」)。神義論への回答として復活を理解したのは、マルクス主義の哲学者エルンスト・ブロッホであった(「希望の原理」)。モルトマンも復活のテーマを神義論、神の正義の実現のテーマと結びつけた(「十字架につけられた神」)。
 さらに「義人の復活」をしるしたものとして「これらののちアブラハム、イサク、ヤコブはよみがえる。…悲しんで死んだ者は喜びによみがえり、主の死んだ者は生命に目覚める」(12族長の遺訓4男ユダ25章)。
 「聖なる、大いなるお方がすべてのことに日を定めておられる。義人らは眠りから覚めて立ちあがり、義の道を歩む」(エチオピアエノク書92:2~3)。
 「その後、メシア滞在の時が満ちて、彼が栄光のうちに帰還される時、彼に望みをつないで眠りについた者はみな復活するであろう」(シリア語バルク黙示録30:1)。
 第三に、死人から復活した者たちの「存在様式」。
 「そして賢者らを導いた者らは明るい大空のように輝き、多くの人々に正しい道に導いた者らは、いつまでの永遠に星のようになるであろう」(ダニエル12:3)。
 「その時、聖者たちと選民たちに(変貌)が起こり、日の光が彼らの上にとどまり、彼らは栄光と栄誉のなかにある」(エチオピア語エノク50:1)。

後期ユダヤ教の死人の復活(三)
 復活した者の「変貌のテーマ」についてもっとも意識的に述べたものは、後1世紀後半(新約聖書時代)にしるされた「シリア語バルク黙示録」である。
 「あなたの日に生きる者はどういう形で生きるのでしょうか。またそののち彼らの姿はどういう形で残るのでしょうか。その時、今のようなこういう形をとり、この桎梏の肢体をまとうのでしょうか(シリア語バルク黙示録49:2)……その時、地は今受け入れてあずかっている死者をまちがいなく、返すであろう。私(神)が彼らをそれに引き渡したそのままの姿で、地は彼らを復活させるであろう。その時には、死んだ者が生き返り、去った者がもどって来るのだ」(50:2以下)。
 ここでは死者の普遍的復活を前提とし、変貌も罪人と義人双方に起こるものとされ、またこの変貌は復活後ただちに起こるものではない。
 「定められたその日が過ぎたのち、罪人とせられる者たちの姿、義人とせられる者たちの栄光が《変化する》であろう。今、不義を行なっている者たちの姿は、彼らが拷問に耐えられるように、今よりもっと悪くなるであろう。同様に、今私の律法に照らして義人とされている者たち、その生涯において叡知を獲得した者たち、その心に知恵の根を植えつけた者たちの栄光も《彼らの顔も変化して輝き、彼らの顔形は彼らの栄えの光に照らされて変わり》、彼らに約束された《死することなき世界》をわがものとして受け取るであろう。…今でこそ下積みになっている者たちがその時には、自分(罪人)たちより上になり、栄誉を得て、互い(罪人と義人)の位置が逆転しているのを見る。一方は《天使の姿》に似る[マルコ12:25のイエスの言葉「死人の中から復活する時には、めとることも嫁ぐこともなく、ちょうど天使のようである」を想起させる]。他方は幻に驚く。…自分の行いによって救われた者、今律法を望みとし叡知を希望とし、知恵を堅固な土台とした人々には、定められた時に不思議が姿を見せるであろう。彼らは今彼らにとって《不可視の世界を見、今彼らの目に隠れている時を見る》であろう。もはや時は彼らを《老いさせない。彼らはその世界の高みに住み、天使に似たものとなり、星と肩を並べ、自分の好きなように姿を変え、美から華麗へ、光から栄光の輝きへと変わり、彼らの眼前で楽園のおし広げられる》(51:1~12)。
 原始キリスト教は、後期ユダヤ教の黙示思想(世の終末、最後の審判、死者の復活などの思想)における「切迫した人の子の来臨の待望」「世の終りの時に死人が復活するという待望」を引き継いだ(マルタの言葉「彼が最後の日に復活することは、私も知つています」(ヨハネ11:24、ケーゼマン「キリスト教神学の起源としての黙示思想」など)。ユダヤ教の内部ではパリサイ人が復活を信じていた、「サドカイ人は復活も天使も霊もないといい、パリサイ人はこれらをみな受け入れていた」(行伝23:8)。彼らは「義人の復活」を信じていたようだ(パンネンベルク)。
 ユダヤ教の律法をめぐってイエスはパリサイ人らと激しい論争をされた。またパウロユダヤ教と対決してこの律法・割礼からの解放として福音を宣教した。
 他方で原始キリスト教、初代のキリスト者は後期ユダヤ教から「死人の復活」という教理を受け継いだ。「死人の復活」は初代のキリスト者の初歩的教理の一部とみなされた(へブル6:1以下)。異邦人教会も、後期ユダヤ教の黙示思想「死人の復活」という教理を引き継いのだ。イエスの復活を理解しようとする場合、復活が科学的にみて可能かどうかをまず問うのではなく、この「死人の復活」をまずもってふまえなければならない。 この項完