建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ユダヤ教における死人の復活1  イザヤ26:19

2000-20(2000/6/11)

ユダヤ教における死人の復活1  イザヤ26:19

「あなたの死者たちは生き、復活するであろう。
 ちりに住む者たちは、目覚めて、喜び讃美するであろう。
 あなたの露は光の露で、地は闇にある者たちを生まれ変えさせるからだ」
                           ヴィルケンス訳
 旧約聖書、後期ユダヤ教における死人の復活について取り上げたい。パウロは「もし死人の復活がまったくないとしたら、キリストもよみがえらされたのではない。…もし死人らがよみがえらされないとしたら、キリストもよみがえらされないのだ。しかしキリストは眠りについた者〔死者〕の初穂として、死人からよみがえらされた」と述べて(第一コリ15:13、16、20)両者の密接な関連を明らかにした。したがって「キリストの復活」について論議する場合、片方の「死人の復活」という表象の宗教的歴史的背景と文脈とをふまえることは不可欠となる(以下は特にパンネンベルク「キリスト論要綱」、ヴィルケンス「復活」に依拠して書いた)。
 旧約聖書ユダヤ教における死人の復活について三つのポイントを取り上げたい。第一に、死人の普遍的復活。ダニエル12章 この文書は前160年頃に成立したので、時期的には後期ユダヤ教に属す。
「そしてその時、あなたの民を支配しているミカェルが先頭に立つ。そして国ができて以来かってないような患難の時があるだろう。しかしこの時に、書にしるされているあなたの民はみなこれを脱するであろう。また地の中に眠っている者のうち多くの者は生き返り、永遠の生命に至る者もあり、恥辱と永劫の罰に至る者もあるだろう」(ダニエル13:1~2、ボルテウス訳)。
 「地の中に眠っている者の多くの者は生き返るであろう」とあるように、ここでは終末時におけるすべての死者の復活「死者の普遍的な復活」が述べられている。しかしながら復活した者らを待ちかまえているのは、神による最後の審判であって、永遠の生命に至ることができるか、それとも永劫の罰を受ける運命にあるか、どちらに行くか決して明らかではない。いわば 「最後の審判への復活」である。
 「義ならざる人々にとっては、死者の普遍的な復活はむしろ恐怖の表現である。彼らにとっては死んだままのほうがよいのだ。しかし義人にとってはそれは《不確かな希望》である。何人も自分が義なる者であるとは確信をもって言うことができないからだ」 (モルトマン「十宇架につけられた神」)。
 第二に、「義人のみの復活」イザヤ26章。ここはイザヤ黙示録と呼ばれる箇所に属し、後期ユダヤ教の時期にイザヤ書に付加されたもので、次のような神への希望がしるされている。「あなたの死者らは生き、復活するであろう(Auferstehen)。ちりに住む者らは、覚めて歓呼するであろう。あなたの露は光の露であって、地は闇にある者たち〔死人〕を生まれ変えさせるからだ」(イザヤ26:19、訳はヴィルケンスの「復活」より)。
 ここでは「神に依り頼み」(4節)「神を待ち望む」(8節)神の民は敵によって圧迫され苦しめられている。彼らを苦しめる敵はすでに救われがたい「死者」とみなされた。「死者は再び生きることはない。亡霊は生き返らない。それゆえあなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らの記憶をことごとく消し去られた」(14節)。苦しむ民は「主よ、悩みの時、私たちはあなたを求めた。あなたのこらしめにあい、苦しみのあまり私たちは叫んだ」と告白した(16節)。地上における不当な苦しみに対する神の正しい裁定・審判への希求とそれに対応する神の側からの回答、すなわち神義論のテーマがここでは登場している。「神の審判が地に現われる時、地に住む者らは義を学ぶ」(9節)。権力によって不当に侵害された人々の権利や名誉は後になって「名誉回復」によって実現するが、ソ連の文学者パステルナークや作曲家ショスタコーヴィッチのように「死後の名誉回復」によっては回復できないその人の生命・死への償いはどうなるのかという問題が未解決のままだ。
 イザヤ26章の死人の復活のテーマ「あなたの死者らは復活するであろう」は本来神義論への回答である(ヴィルケンス「復活」)。神義論への回答として復活を理解したのはマルクス主義の哲学者エルンスト・ブロツホであった(「希望の原理」)。モルトマンも復活のテーマを神義論、神の正義の実現のテーマと結びつけた(「十字架につけられた神」)。世界の歴史において重大な問題は、人々の味わう不当な苦しみ、悪しき国家権力による大量殺戮、抹殺、粛正の犠牲者はどうなるのかという問題、である。以前旧社会主義国において「名誉回復」というのがあった。その人が粛正にあって、名誉も地位も財産も生命すら奪われ、その死後になってようやく、そのひとの正義が実証されて「名誉を回復した」例えば旧ソ連の、ブハーリンパステルナークの例がある。しかし名誉は回復しても、回復できないそのひとの生命はどうなるのか。償いえない生命の回復、これが復活のテーマとなる。
 「義人の復活」をしるしたものとして、さらも次の箇所がある。
 「これらののちアブラハム、イサク、ヤコブはよみがえる。…悲しんで死んだ者は喜びによみがえり、主の死んだ者は生命に目覚める」(十二族長の遺訓 四男ユダ25章、教文館発行「旧約偽典三」)。
 「聖なる、大いなるお方がすべてのことに日を定めておられる。義人らは眠りから覚めて立ちあがり、義の道を歩む」(エチオピアエノク書92:2~3)。
 「その後、メシア滞在の時が満ちて、彼が栄光のうちに帰還される時、彼に望みをつないで眠りについた者はみな復活するであろう」(シリア語バルク黙示録30:1)。