建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活1  第一コリント15:50~57

2000-29(2000/8/20)

キリスト者の復活1  第一コリント15:50~57

 従来キリスト教信仰の中心テーマである「キリストの復活」については、真剣に精力的に研究されても、「キリスト者の復活」については、付録的、第二義的にしか取り上げられない傾向が強かったと感じられる。この傾向が是正されてきたのは、やっと五、六年前の、1995年ころからだ。モルトマンの「神の到来」(1995)、ヴィルケンスの「死にさからう希望」(1996、彼は1970年に「復活」を書いている)などによってである。モルトマンはこの著作の第二章で「永遠の生命」について論じ、死者はどこにいるか、死者たちとの再会など、について述べている。ヴィルケンスの著作は、後半でキリスト者の復活を取り上げた。
 さてキリスト者の復活についてしるした聖書の箇所をみたい。
 第一にふまえなければならないのは、新約聖書においてキリスト者の復活についてしるした箇所は、すべて一つの基盤に基づいている。それは若干の表現上の変化があるにしても、「神はイエスを死人の中からよみがえらせたもうた」という基盤である。この基盤をぬきにしては、キリスト者の復活もありえない、ヴィルケンス「死にさからう希望」。イエスの復活への信仰があいまいになったり、それへの疑念が多くなればなるほど、キリスト者の復活への希望もぼやけたもの、あいまいなものとなる。
 特に「死人の復活」に関してなじみのない初代の「異邦人キリスト者ら」が、死人の復活、世の終わり、人の子の来臨といった後期ユダヤ教に由来する黙示思想を「ユダヤキリスト者ら」から引き継いだ事実を想起すると、コリント教会におけるパウロの論敵らのような逸脱から、現代の私たち日本のキリスト者はどのようにして護られるか重大なテーマとなる。キリスト者の信仰、希望は決して自分が生きている間だけの事柄に限定されることはない、自分たちの死後における出来事、自分たちの来世における「キリストと共にある生」、不死の体を着せられること、復活への希望を含むものである。キリストの復活は信じているが、自分たちの復活は信じない、どうでもよい、という事態に陥ることだけは避けなければならない。

キリスト者の復活についての聖書の箇所
 第一テサロニケ4:14~16。第一コリ6:14。第二コリント4:10~11、14。第一コリ15:20~23。ロマ8:11。

 「兄弟たちよ、私はこう確言する、肉と血は神の国を受け継ぐことはできないし、過ぎ行くものは不滅のものを受け継ぐことはできないと。見よ、私はあなたがたに奥義を告げる。私たちすべてが眠りにつくのではなく、かえって私たちすべてが変容されるであろう最後のラッパの折りに、たちまち、瞬時に。というのはラッパは鳴るであろう。すると死人らは不滅のものとしてよみがえらさるであろう、また私たちは変容させられるであろうからだ。というのはこの過ぎゆくものは必ずや不滅のものを、この死ぬべきものは不死なるものを着るからだ。しかしこの過ぎゆくものが不滅のものを、この死ぬべきものが不死なるものを着る時、その時(聖書に)書かれた言葉が成就される、『死は勝利に飲みつくされた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか、死よ、おまえのとげ(刺)はどこにあるのか』(イザヤ25:8、ホセア13:14)。死のとげは罪である。しかし罪の力は律法である。しかし神に感謝せよ、私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えられた方に」15:50~57。コンツェルマン訳
 ここではパウロは15章全体のテーマ「現実としての復活をあるがままのものとして立証している」バルト。ポイントは「人間の身体性」である。
 50節「肉と血とは神の国を受け継ぐことはできない」。ここで「肉と血」はガラ1:16では「血肉に相談せず」、親族の意味。ここではベンシラ14:18「血と肉である人間の世代も、一つ終れば他のものが生まれる」と関連し、「過ぎゆくもの、被造物なもの」としての人間存在を意味する。したがって「過ぎ行くもの」50節「死ぬべきもの」54節を意味する。44節のよく知られた対比「魂の体と霊の体」の、「魂の体・地上的な体」「魂的なもの」46、「地上的なもの」48、を意味する。
 パウロが主張しているのは「肉と血、生まれながらの地上的な人間存在は神の国からは締め出されている」という点である。神の国を受け継ぐことができる身体的存在は、霊的体、天的なもの、不滅のもの、46~48、51、のみであると。したがって厳密にいえば、キリスト者の地上的ありよう自体、あるいはキリスト者がただ死ぬだけでは、神の国には到達できない。
 「実際《死ぬこと》は神の国にいることではない。『腐朽性は不減のものを継ぐことはないであろう』(50節後半)。つまり人が死ぬこと自体によって不死になると思うのは大きな誤解である。肉と血の死はそれ(復活の現実)をつくり出さない。…にもかかわらずパウロが死ぬことの中に真の生命に至る門を見ていたことは間違いない。腐朽性が不滅のものを継ぐためには、神の奇跡が入り込んでこなければならない」(バルト「死人の復活」)。
 51節。パウロは、「神の奥義」を告げている。この奥義(覆いをはいであらわに示すこと)とは「生きている者と死人との復活における同時性ということ、である」バルト。
 52節。この復活における同時性とは、「《すべての者》が変えられる」つまり生ける者と死人とが《変えられる》こと。「変えられる・アラッソー(の受身の未来形)」(52節と2回)は、終りの日キリスト者の体の状態の変容・変貌を意味する、バウア一。むろんこの用語の「受身形」の背後には神がいます。終りのラッパが鳴る時、死せる者と生ける者との変容をなしとげられるのは神である。