建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活2  第一コリント15:51~52

2000-30(2000/8/27)

キリスト者の復活2  第一コリント15:51~52

 「私たちすべてが眠りにつくのではなく、むしろ私たちすべてが変容されるであろう。一瞬に、またたく間に、最後のラッパが鳴り渡る時。というのはラッパは鳴るであろう。すると死人らは不滅のものとしてよみがえらされるであろう。また私たちは変容させられるであろう」。
 51節の「変容される」受身形は、「私たちすべての者」に関わる。死者たちのみならず、生きている者たちすべてに。パウロが言おうとしているのは、この変容が「キリスト来臨の時点で生きている者のみ」に関わる出来事だ、というのではない。むしろ死者にも関わるということ。すなわちこの世では絶対的に隔絶されている、死者と生者とのこの隔絶の破棄、これがここで起きる「変容」の出来事である。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものである」(ロマ14:8)は、ここできわめてネガティブな意味合いを明らかにする。死者が生者よりも有利な存在として、それ自体では「神の国を受け継ぐ」(50節)、不死性を獲得するとはないこと、を明らかにしたのは、バルトである。
 生者はむろん死者よりも有利な存在ではないこと(たとえそれがキリスト者であってもそれ自体では)、はパウロが50節があきらにした。コリント教会におけるパウロの論敵らはあるいは、来臨の時点での生者のほうが有利だと誤解したかもしれないが。この「変容の出来事」は、通常の死者と生者との隔絶、障壁を引き裂く。そして死者と生者の双方に《同時的に》一つの出来事を引き起こす。「生者と死者との二つの集団が基本的に同一の運命をたどるとパウロはみなした」コンツェルマン。それが「変容の出来事」である。「復活は人間の生と死とを縦に貫いて起こる」バルト。
 52節。ではこれはいつ起きるのか。「突然介入してきて、すべての時代を《縦に引き裂くこの危機》」(バルト)については、3つ語られている。すなわち「一瞬にして、またく間に、最後のラッパが鳴り渡る時」。「一瞬にして」も「またたく間に」もこの出来事が「突発的な事件であること」を述べている、バルト、新しい創造の奇跡的性格を表現している、コンツェルマン。つまり、通常の歴史の流れのカテゴリーでは把握できないものであって、ここでは「通常の時間表象・概念は拒絶される」コンツェルマン、「歴史の漸進的な、あるいは破局的な諸発展において来るような出来事ではない」。むしろ、この出来事・復活は他のもろもろの歴史を貫いて独自の道を進みゆく救済史である、バルト。「最後のラッパが鳴り渡る時」、第一テサ4:14「神のラッパ」。これこそこの危機の決定的な標識である。52節中段にはもう一度「ラッパは鳴るであろう」との「未来形」がでてくる。この未来形に着目してバルトはいう、ここでの眼日は「復活の未来」「永遠の未来」であるから、この聖句の引用は必ず未来形でせよと。
 さてその時、何が起きるのか。それが「変容の出来事」である。この「変容」をパウロは同じ用語で二つの意味で用いている。第一に、包括的な意味。それが51節、「すべての者が、死者も生者も変えられる・変容されるであろう」。52節では、この変容は、同時的な二つの出来事に「区別」される。死者らの場合の変容は「復活させられるであろう」復活と表現され、他方「私たちは変容されるであろう」すなわち生者らの場合の変容は変容と表現されている。この出来事の内容は、次回。