建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活3  第一コリント15:53

2000-31(2000/9/3)

キリスト者の復活3  第一コリント15:53

 「というのはこの過ぎ行くものは不滅のものを着、またこの死ぬべきものが不死なるものを着《なければならない》からである」。
 ここは復活の意味、変容の意味を説明している。その意味とは「不滅性、不死を着ることだ」と説明している。ここの「過ぎ行くもの・フタルトン」は、「過ぎ行くもの、移ろいやすい、分解してしまうもの、朽ちるもの」などの意味。ロマ1:23「朽ちない神と朽ちゆく人間」(不滅の神と過ぎ行く人間)では、第一コリ9:25、第一ペテロ1:23では、ここと同じ対比(フタルトン-アンタルトン)がででてくる。翻訳ではルタ一訳「移ろいゆくもの」、「過ぎ行くもの」バウアー、バルト、コンツェリマンなど。協会訳前田訳「朽ちるもの」。次に「不滅のもの・アフタルシア」は、後期ユダヤ教の第四マカベア9:22では敬虔な若者の殉教との関連で「不滅の生命へと変えられる」、17:12「つきることのない不滅の生命」として出てくる。「不死なるもの・アタナシア」は旧約外典の知惠の書3:4、15:3に出てくる。
 ロマ1:23、第一コリ9:25、第一ペテロ1:23では先の対比で、第一コリ15:42、50、また52では「復活の体」の意味で。
 ここで復活の出来事は「不滅のもの、不死なるものを着る」と表現されているが、パウロは地上的な人間の身体性を「魂・こんの体」と呼び、復活の身体性「霊の体」と峻別している。42節「死人の復活もこれと同じである。《腐朽するもの》で蒔かれて、腐朽しないものによみがえらされる」。44節「《魂の体》で蒔かれて、霊の体によみがえらされる」と言い換えられている。
 どのようにしてこの出来事が起こるのか。それをしるしたのが「着る」という用語である。第二コリ5:4「私たちは現在の幕屋の中で苦しみうめいている。この幕屋を脱ぎたいと欲しているからではなく、むしろ《天にある永遠の家を上から着せられたい》と欲しているからである。それは死ぬべきものが生命に飲み込まれるためである」ブルトマン訳
 ここでも地上的な身体性「死ぬべきもの」が復活の身体性「天にある永遠の家」を与えられる出来事を「上から着せられる」(神的受身形)として述べている。
 44~49では、「魂の体と霊の体」の対比が述べられ、復活は「霊の体によみがえさせられる」と表現されているが、この対比は「アダム一最後のアダム、キリスト」「魂的なもの一霊的なもの」「地上的なもの一天上的なもの」「地上的な像一天上的な像」とさまざまに述べられている。特にプラトンの「霊魂不滅説」に対するパウロの反駁はここでは顕著である。人間の精神的な側面をつかさどる「霊魂・プシュケー」をプラトンらは不滅のものとみなしたが、その影響下にあったキリスト者もあるいは(地上的な存在様式において魂が今すでに聖霊をうけたものとして不滅であろうと想定したかもしれないが)パウロのこの対比論でそれを「魂的」と規定し、「恥、弱さ」と特徴づけ(43)、決定的に「腐朽するもの」(42)「死ぬべきもの」(53)と規定しているからである。協会訳、前田訳の「肉の体」からは、パウロのいわんとした「魂と霊との鋭い対立」は読みとりにくい。したがって復活の出来事は、このような対比(対照)がすべて「揚棄されてしまう」出来事、「キリストにおけるアダムの救い、ソーマ。体の、魂的生から霊的生への激変である」、バルト。